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03-1



「あーもう、何で忘れ物するかな……」

会社から30分歩き、家に到着して玄関に入った瞬間、忘れ物に気付いた。がっかりである。
明朝出社した時に回収したいところなのだが、明日はもうひとつの仕事の都合で休みを取っており、行くタイミングがない。しかも忘れたのは明日使用予定のカーディガンなのだ。取りに行かねば。お前、他に服持ってないの?と言われそうだが、そのカーディガンに拘る理由は先方に服装を指定されているせいである。あいにくピンクのカーディガンはあれしか持っていない。

いつもなら渋々、のろのろと取りに行くところだが今日は事情があって私は少し焦っていた。
タイミングの悪いことに、これから食事の約束がある。これからといっても約束は19時なのだが、会社に戻っていたら間に合わない。
スマホを取り出し、迎えの場所を変更してもらえるようメールを送信する。気付いてくれればいいけど。あちらは18時半まで依頼人と会う予定があると言っていたし、電話はやめた方が無難だろう。

そう、食事の約束というのは安室さんとだ。初めて家まで送ってもらった日から、安室さんとは会社や喫茶店でたびたび顔を合わせていた。3日ほど前にポアロで、私がナポリタンを早々に完食してデザートをぼーっと待っている間、彼に食事に誘われたのだ。
いつも探偵業の方でお世話になっているので、というお誘いの言葉だったが、それならむしろポアロでの食事に生きる喜びを見出している私がお礼をするべきではないか?と思って彼にそう言った。けどそこはあれだ。僕があなたと一緒に食事をしたいんですよ、ときっぱり言われてしまえば頷くしかない。なぜこうも二次元かどこかで見たテンプレ返しが別世界の言葉のように聞こえるのだろうか。まったくいい仕事をする。触るまいと思っていたのに、ホイホイと連絡先を教えてしまったではないか。安室さんの下の名前もこの時初めて知った。

急ぎ足で会社に戻ると、夕暮れにがらんとした様子の建物がそびえている。

「あ、そっか……今日は定時の日かぁ」

時代の波に乗ったのかどうか知らないが、1ヶ月に一度、従業員全員が定時で退勤する日がある。今日がそうだったようだ。そういえば帰り際にアナウンスが流れていたかもしれない。今日は残業する気がさらさらなかったので気にしていなかった。
スマホを見ると安室さんからの返信はない。ひとまずはカーディガンだ。
入り口のカードリーダーに社員証を当て、ロックを解錠する。
別にやましいことをしているわけではないのだが、近所の人に目撃されて「定時で帰ったと見せかけて実は働いてる」系のブラック企業だと思われたらどうしよう……といういらん心配がよぎったので、明かりはつけずに階段で4階まで上がって行った。少し薄暗い。

「…………ん?」

自分のデスクに行こうとして、違和感に足を止める。
何故かパソコンが起動しているデスクがあった。人気はもちろんない。誰かが落とし忘れたのだろうか。それにしては、と首を傾げる。様子が変だ。
近付いて見ると妙なウィンドウが立ち上がっていた。遠隔操作か?シャットダウン中に特殊な信号を送ると家から起動できたりするので、それ自体は問題ではないが、総務のパソコンを遠隔から起動する理由が分からないし、うちの会社はセキュリティにものすごく強いわけでもない。このような行為は推奨されないだろう。不審に感じて少しだけ覗いてみると、どうもこのパソコンがハッキングされているわけではないようだった。ひょっとしてリモートPCがこれなのか。人、いないけど。どうも悪いことをしている雰囲気である。一体何の必要があって、誰の情報を盗もうとしているのだろう。
眺めていても分からない。カードキーによって私の立入記録が残っている以上、今ここでアクションを起こせば足がつく。そちらを抹消している暇はない。ならばこのPCが現在進行形で盗みを働いているファイルを、こっちも黙って手に入れるだけである。
私は念のため周囲を確認して、自分のデスクの引き出しからUSBを取り出し、起動中のPCに差し込んだ。怪しいと思われるデータを片っ端からコピーしたあと、メモリを抜いてエディタを起動する。キーを探して、接続情報をさっさと削除すれば完了だ。偶然忘れ物を取りに来た女がデータを抜き取ったなんて思いもしないだろう。誰の仕業かわからないが、会社の不利益になるようなことは見過ごせない。関係のない情報なら破棄してしまえば良い。

少し時間を食ってしまった。USBを鞄にしまい、当初の目的であるカーディガンを自分の椅子の背もたれから手に取る。こうして掛けていて、たまに忘れちゃうんだよなぁ。
足早に階段を降りて、建物のドアを開けた。

「!!!」

会社を出たところで、ぞくりとした悪寒を感じて立ち止まった。肌が粟立つ感覚。凍りつくような視線だ。誰かに見られている。しまった。視線に気付いたことを悟られてはならない。
私は立ち止まってしまったことを誤魔化すように、鞄を開けてスマホを取り出した。するとちょうどタイミングよく安室さんからの返信がきていた。了解の返事だ。私はほっとして画面を指で操作する。そうしていると、視線はすうっと消えて行った。
内心は滝のような汗を掻いている。おかしいな、私はこういったことは前の世に置き去りにしたつもりだったんだけど。私は自分がまた妙な行動を取ってしまっていないか気が気じゃなかった。いくら自分で気をつけても、外からこうして干渉されれば反応してしまうこともある。

「ナナシさん、忘れ物はありましたか?」
「!!」
「……どうしました?」

急に声を掛けられてびくりと肩を震わせた私に、声の主は不思議そうに尋ねてきた。視線を上げるといつの間にやってきたのか、目の前に安室さんの姿。

「いえ、画面に集中してたからびっくりして。急に場所を変えちゃってすみませんでした」
「大丈夫ですよ。それにしても、わざわざ取りに戻るなんて何を忘れたんです?」
「……実は服を忘れてしまって……どうしても明日着て行きたかったんです」

鞄を少しだけ開けて、畳んで入れたカーディガンをちらりと見せる。安室さんはそれをじっと見てから、もう一度私と視線を合わせた。

「かわいい色ですね。……もしかしてデートですか?」
「違いますよ!ちょっと別の仕事があって」
「へえ……ナナシさんは他でもお仕事を?」
「はい、大学の時の恩師に頼まれて、まあいろいろ」
「いろいろ、ですか……気になりますね。まあそれは後で聞かせてもらうとして、行きましょうか」
「はい」

やっぱり探偵ともなると色々なことが気になるんだろうな。私はといえば、最近気になるのはポアロの次なる新メニューがいつ出るのかってことと、来週のドラマくらいだ。平和で良いことだ。心の中でよしよしと頷きつつ、またもナチュラルにドアを開けてもらって助手席に乗せてもらう。スマートか。運転席に乗ってきた安室さんはエンジンをかけると、発進せずにふいにこちらを見つめてきた。その視線に、私も顔を向ける。

「安室さん?どうしました?」
「いえ、何でも。あなたと一緒に食事できるのが嬉しいんです」

何の裏もない、女性がころっと落ちてしまうような完璧な笑顔だった。




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