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16-8




ほんのり熱を帯びた両手に流水が心地良い。ハンカチで手を拭きながら、ぴかぴかに磨かれた鏡に映る自分の姿を見つめ、私は深い溜息を吐いた。
さて、普通に考えればこのあと公園で誰に会おうが私の自由である。相手が男でも女でも、することは変わらない。だが安室さんに対してやましいことがないかと問われれば、多少はある。関係者の伝言を会ったこともない誰か……善人か悪人かも知らずに手渡そうとしているのだ。少なからず後ろめたさは拭えない。それが微妙によくない方向に働いてあらぬ誤解を生んでしまったわけだが、もうここまできたら誤魔化すとかあしらうとか、そういったことは無意味だ。そう。とにかく、逃げよう……。
私は鞄からスマホを取り出すと、刑事さんに宛てたメール画面を立ち上げる。こんなことなら降谷さん本人の連絡先を教えてもらえばよかった。今夜の待ち合わせ場所を公園からショッピングモールに変えてもらえるように書いて、送信する。かなり一方的だが時間がないので仕方がない。話の内容が内容だし、相手から指定されたこともあって人気のなさそうな場所になったのだが、公園ではだめだ。安室さんを撒ける自信がない。ショッピングモールの普通のテナントは閉まってしまうだろうけど、食品売り場は遅くまで営業しているはず。無人の公園より、人に紛れた方が気付かれずに相手と落ち合いやすい。万が一上手くいかなかったら後日出直すことも考えなければ。一瞬、このままレストランを脱出してしまおうかとも思ったが、今後のことを考えればそれは良くないだろう。
この時点で私はまだ、何だかんだで安室さんから逃げ切れると思っていた。


お手洗いから戻ると、食べ終えたメインのお皿は下げられており、デザートのプレートがテーブルに置かれていた。私が逃げるとは思っていなかったらしい安室さんは、先程から特に変わった様子もない。私が椅子に座ると、彼は自分の腕時計を確認する。

「連絡はつきましたか?」
「……何のことでしょう?」

私はツンととぼけて、意地悪な安室さんを放置することにした。プレートの上の小さなグラスに、イエローやマスカットのきらきらした色とりどりのジュレとリコッタクリームのホイップが乗っている。ひんやりとして甘く口あたりの良いそれを食べながら、向かいで同じようにジュレを口にしている彼をちらりと窺った。大きな手でデザート用のスプーンを持っていると、まるで子供用ので食べているみたいだ。なんだか安室さんに全然似合わないというか、彼女に付き合って可愛いもの食べてる彼氏感がすごいな……ポアロでケーキのお皿を持ってる時はあんなに爽やかでかわいいのに、不思議な現象である。

それから食後の紅茶をいただいて、レストランを出ると既に21時半になろうとしていた。やはりコース料理ともなると時間がかかる。約束の22時という時間はちょうど良かったようだ。

「あの……ごちそうさまでした。結局いつもごちそうになっちゃって……今度は私が払いますから」
「それなら、僕はナナシさんの手料理が嬉しいですね」
「……き、機会があれば」
「機会はいくらでもあると思いますけど?」

にこりと完璧な笑顔の安室さんから逃げるように、私はすたすたとエレベーターまで急ぐ。ないよ。いくらでもはないよ。
平日なだけあってエレベーターホールに私達以外の客はいなかった。下へ行くボタンを押してから、レストランに入る前と同じように大きな窓から見える夜景に目を奪われる。すぐに追いついてきた安室さんの革靴の音が背後から聞こえた。

「それで、本当は?」
「え?」

振り向くと、思ったよりもすぐ後ろに安室さんが立っていて、私は驚いて一歩下がった。普段から背が高いなぁと見上げていて慣れているはずなのに、スーツ姿だからなのかいつもと違う感じがする。その、圧が。私がおかしいというより、安室さんがいつもの距離感じゃないような、そんな気がした。

「本当は誰と会うんですか?」
「……何でそんなに気にするんですか……」
「こんな夜中に他の男と会うなんて、気にならない方がおかしいでしょう」
「お……男の人とは言ってな、」

私の言葉を、エレベーターの到着音が遮った。ゆっくりと口を開けたドアの向こうで、美しい夜の街が燦然と輝いている。自分でも何故か分からないが一瞬、誰もいないそこへ乗り込むのを躊躇した。そんな私の肩を、安室さんが自然な動作で抱いて中へと促してくる。一歩、二歩と歩みを進めながら、長い褐色の指がB2階のボタンを押すのを視界に入れた。そこは地下駐車場だ。1階で降りたい私が困った顔をしたことに彼ならば気付いただろうが、肩に回った腕が解かれることはなかった。

「思い出しませんか?いつだったかこうやってエレベーターで……」

中まで進むと、あの時のように向かい合って、安室さんが私を見下ろしてくる。初めて一緒に食事をしたのもこんなホテルだった。あの時は外の景色は見えなかったし、ぎゅうぎゅう詰めでずっと安室さんとくっ付いていたっけ。まあ、目の前の男にそう仕組まれたんだけど。なんだかもう随分と前のことのように感じる。ただの触れてはいけない怪しいイケメンだと思っていたあの頃が懐かしい。

「……安室さん、あの時と違う人みたい」
「……何故でしょうね?」
「スーツだから?」

私が首を傾げると安室さんは瞬きをして、少しだけ笑う。

「ナナシさんはあまり変わりませんね」
「普通はそんなにころころ変わりませんからね?安室さんもできるだけ統一してくださいね」
「……それは難しいな」

今度は困った顔で笑った安室さんを、私はじとりと見つめた。……色々な顔を持つのはいいとしても普通は1人に対してずっと同じ顔で接触するでしょう?そうしないと使い分けている意味がない。なぜ、私には色々な顔を見せてくるんだ。しかも他の人にはできるのに私には難しいって、なんで。

エレベーターのドアがゆっくりと閉じられた。扉の上にあるインジケーターは、上へ向かう表示から逆方向へと切り替わっている。窓の外に向けたものではない、漂う些細な視線の動き。安室さんが監視カメラの位置を気にしたことに気付いてしまって、私は内心で焦った。いや、乗る前から予感はあったというか、もう雰囲気が覆せないほどにそういう風になってしまっているというか、こうして言い訳を並べ立てる頭の中は忙しないのに、体は動かない。やっとの思いで後ずさろうとした私を、力強い腕が引き寄せる。ナナシさん、と名前を呼ばれて、見上げた先の青い瞳に絡めとられた。

「僕もあなたと秘密を共有したいです」

……いいですよね。そう至近距離で囁かれる懇願にも似たその唇を、拒むことはできなかった。
身を屈めた大きな体躯がカメラから私を覆い隠す。レンズが見つめているであろうグレーのスーツの広い背中に、手を伸ばした。

「ん……」

ぴたりと塞ぐような、隙間を埋めるような口付けに瞼を閉じる。じわりと熱を持った互いの温度が心地良い。角度を変えるほんの僅かな一瞬も惜しむように、何度も擦り合わせて柔らかな唇の感触を確かめ合う。決して深くはないそれは、ただ離れがたいと言っているような、そんな口付けだった。
唇を触れ合わせたままで、ふわりと、足元が浮くような浮遊感に襲われる。下降を始めたエレベーターの中で目を閉じていると不思議な感覚がして、私は彼の背中にぎゅっとしがみ付いた。高そうなスーツなのに皺になってしまいそうだ。ふと瞼を上げると、同じく目を開けたらしい彼と目が合う。恥ずかしくなって咄嗟に唇を離したが、再び瞼を閉じた男が追い縋るように強引に私を抱き寄せてキスをしてきたので、ぼんやりと見つめてそれを受け入れた。
エレベーターが下降するのに合わせて、窓の外でたくさんの灯りが、夜の街並みが天に昇っていく。摩天楼の天辺から真っ逆さまに落ちる、一緒に落とされる感覚に陶酔する。最下層へと吸い込まれる瞬間に、何百万もの明かりが集まってできた光の洪水にのまれ、私達は見えなくなってこの世界から消えてしまいそうだった。





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