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16-6




少しかさついた指が皮膚を撫でた。いつも思うけれど、温かい手だ。

「いや、一般論ですからね、逃げられるっていうのは」
「なんだ……」

私の言葉に目の前の男は短い呟きを漏らしたが、その表情は安堵するでもなく、何も変わらない。手は握られたままだ。こうする隙を窺っていたかのような態度に、これは捕まってしまったなぁと思う。どきどきして思考が雑になってきた。ふたりの世界、とはよく言ったものだが、彼の手首に巻き付いた時計の文字盤の上では変わらず時間が動いている。その針を見ると時刻は19時半過ぎ。私の視線に気付いた男が、ところで、と声をワントーン下げた。

「まさかあの男じゃないでしょうね、これから会う人というのは」
「違います」

普段は基本的に丁寧な言葉遣いの彼が言う、"あの男"。ここで一秒でも反応が遅れたらまずいと察知した私の反射神経はさすがとしか言えなかった。食い気味に返事をしたおかげか、安室さんは一瞬ものすごく微妙な表情を浮かべたが、すぐに気を取り直したように息を吐いて視線でこちらを探ってくる。さすが現役、とても怖い。スーツが無駄に玄人感を出してくるのをやめてほしい。

「なら……商店街で一緒だった人ですか?」
「……違いますよ?」
「最近、彼とよく一緒にいますよね」

安室さんは私の指をきゅっと握り直した。
商店街で一緒だった人。確かに、最近私は刑事さんと一緒にいる。尾行から助けてもらったのが縁だが、親しみやすいというか、軽い性格もあって出会ったばかりにしては距離は近い方かもしれない。多分に打算を含んでいるが、やはり警察内部に詳しい人間の存在というのは頼りになるし、何より、FBIや公安などと違って何かあれば公然と呼べるのは大きい。安室さんのことだから、もう刑事さんのことくらい調べていそうなものだがどうなのだろう。おそらく刑事さんが安室さんを知る機会はないが、その逆ならば容易に情報を入手できそうだ。
何も返さなかった私を見てどう思ったのだろうか、安室さんは、ふっと息を漏らして薄く笑った。その表情はあまり見たことがない。不敵な笑みだ。

「脈が早いですね。嘘はいけませんよ?」

嘘はついてない。ついてないけど、そんな顔をされると何でも喋ってしまいそうだ。笑みすら浮かべて尋問モードに入っている安室さんは、本当のことを言えとばかりに見つめてくる。嘘はいけないと言われたばかりなので思ったことをそのまま目の前の男に伝えようと思ったが、開きかけた唇を見つめられて妙に緊張した。

「その……」
「…………」
「……気付いてないのかもしれませんけど、安室さんが握ってるせいです……今日いつもと格好違うし、ドキドキして……あ、いつもかっこいいですけど、」
「ちょっと待って。一回、黙ろうか……」
「はい」

途中で僅かに目を見開いた安室さんが、やや焦ったように私の言葉を遮ってきた。直後に、はぁ……と深い溜息を吐かれたが、私の方が溜息を吐きたい。こんなものドキドキするに決まってるだろうが。手を握ったまま俯き加減になった彼の金色の髪がさらりと揺れる。そんなふたりの元へウエイターさんが笑顔で近付いてきたが、テーブルの上でしっかり手を繋ぎ合っているのを視界に入れると、にこやかな顔のままとても自然な動作で去っていった。……気まずい。とても。だが気まずい思いをしたのは私だけだったようで、向かいに座る彼は身じろぎもしない。再起の気配がないので「あの」と声を掛けると、ようやく顔を上げた男が「何ですか」と返事をした。金色の前髪から覗くその双眸は機嫌が良さそうには見えない。珍しくわりと動揺しているようだ。これはチャンスだ。

「私も聞きたいことがあるんです」
「……何でしょう」

さっきまでの会話で、ずっと気にしていたことの答えがちらりと顔を見せた気がした。聞くなら今しかない。

「安室さん……10日前の日曜日の14時頃、どこにいましたか?」
「さあ、忘れました」

即答である。私は思わずぽかんと口を開けてしまった。わ、忘れました?安室さんが言わないであろうと思われる台詞のトップ10くらいには入っていそうな無責任な言葉だ。せめて少し考えるそぶりをしてから言ってほしかった。それはメイちゃんの誘拐に巻き込まれそうになった、例の倉庫での一件があった日。
安室さんは先ほど「最近、彼とよく一緒にいますよね」と言ったが、私が刑事さんと一緒にいる時に安室さんと顔を合わせたのは、あの商店街のみだ。なぜ、最近一緒にいることを知っているのかということになる。そして彼の忘れたという返答は、私が10日前のあの日から胸に抱いていた疑問への明確な答え。探偵の仕事をしていたとか、ポアロにいたとか。彼ならば適当に誤魔化せたはずだ。それをとぼけたということは、やはり、私の思っていた通りなのだろう。おそらくは内密にしておきたかったはずなのに、私の前で最大限の譲歩をしている。思うところがある、という言葉と関係があるのかもしれなかった。

「どうして教えてくれないんですか」
「記憶がないもので……すみません」

とぼけるの大雑把か。私はムッとした表情を作って、繋いだままだった手を振りほどく。見計らったかのようにウエイターさんがやってきたのでとても恥ずかしかった。

「ありがとうございました……助けてくれて」

小さな声でそう言った私に、安室さんは何も答えなかった。





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