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16-3




超高層ビルの部類に入るであろう35階建てのタワーホテル。その34階にあるレストランの前で、私はやって来るはずの男を待っていた。さすがにふらっとランチに出掛けた服ではNGだと思い、一度家に戻って着替えている。ミントグリーンの膝丈ワンピースにオフホワイトのボレロとネックレス。髪は下ろしている。あまり飾り気もなくシンプルだがこれくらいが丁度いい。
摩天楼の巨大な窓から見下ろす地上は、空にある幾億の星よりもずっと煌びやかに輝いている。道路に沿って溢れるビルの明かりが夜の街を縦断して、飽和した箇所がさながら光の洪水のようだった。密集したビル群の窓ひとつひとつに微妙に色の違う明かりが灯っているのをぼーっと見つめて、私は嘆息する。あのすべてに人間がいて、それらを見下ろしている自分自身が不思議に思えた。
外を見たままぼんやりしていると、スマホがメールの受信を告げる。

「……え?中に入れ?」

確認すると赤井さんからのメールだった。お前の名前を言って中に入れ、と簡潔な一文。先に入っているならメールしてくれればいいのに、いや、彼も着いたばかりなのかもしれない。私は窓から離れて、レストランの入り口に近付く。気付いたウエイターさんがすぐに声を掛けてくれた。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか」
「はい、先に来ているはずなんですけど……私はミョウジです」

自分の名前で入れと言われたので名乗ったが、普通は予約者の名前を言うものではないのだろうか。内心訝しむ私に、ウエイターのお兄さんは朗らかに微笑む。

「ミョウジ様でいらっしゃいますね」

こちらへどうぞ、と促されて、レストランに足を踏み入れた。控え目に落とされたレストランの照明の下、足もとに設置された灯りが通路を薄ぼんやりと照らしている。食器の触れ合う音と男女が静かに会話する声がどこからか響いてきて、何となく浮ついた気分になった。お兄さんの後に続きながら歩き、やがて窓際へと近付いていく。アーチ状になった大きめの窓の向こうには先ほども見た美しい夜景が広がっており、絶好のロケーションだ。
その窓際の席の奥のほう。ひとりで外を見ているスーツ姿の男が視界に入り、私は瞬時に目を奪われた。居ずまいが綺麗だったというのもあるが、間違いなく私でなくてもそっと見てしまうであろう、その整った横顔。薄暗くても分かる、金色の髪。……いや、ちょっと待って。なぜ?
内心で激しく動揺する私に構わず、ウエイターさんはよりにもよってそちらに近付いて行く。あと少しでそのテーブルに到着するというところで、窓の外を見ていた男……こちらに気付いた安室さんが驚いたように私を二度見したのを見逃さなかった。

「こちらです」

ウエイターさんがスッと手のひらを上に向けて示した先は、安室さんの向かい側だった。うん、そうだよね。歩きながらそれしかないとは思ってた。だってここは一番端のちょっと広いスペースに置かれたテーブルだし、もうこの先は壁だから。ひょっとして赤井さん、壁の中にいるのかな?……現実逃避はやめよう。メニューをお持ちします、と言いながら椅子を引いてくれたウエイターさんに会釈をして、私は席についた。

「こんばんは……」
「……こんばんは」

未だ混乱のさなか、何とか挨拶を交わす。何がどうなっているのか一切の見当が付かないが、唯一分かるのは、目の前にいるのは安室さんで間違いない。今日は今までと格好が違って、グレーのスーツにブラックのネクタイ姿だ。外見が華やかなせいでどんな服を着ていてもイケメンなお兄さんという感じなのだが、スーツだとちょっと威厳が出るというか、キリッとしていて印象が違う。思わずまじまじと見ていると、安室さんの方から口を開いた。

「どうしました?」
「……スーツの安室さん、初めて見たなぁって」
「今日は依頼主が省庁の関係者だったので、硬い格好なんです。着替えに戻る時間がなくて」
「そうだったんですね……」

いや、自分も中央省庁の人間ですよね?安室さん、息をするように嘘を吐くなぁ。いつもと変わらない様子の彼を、私はおそるおそる窺い見る。何事も出だしが肝心である。こういうのは正直に聞いた方が良い。

「あのー……実は私、状況が飲み込めてなくてですね……安室さんはどうしてここに?」
「コナン君に呼ばれたんですよ。少し前に事件があって、手を貸したお礼だと。ナナシさんに会えるとは思っていませんでしたが」

安室さんはそう言ってじっと私を見つめると、少しだけ笑った。ナナシさんは?と聞き返されて、私は開きかけた唇をきゅっと引き結ぶ。赤井さんに騙されてここにきました。駄目だ絶対に言えない。赤井さんと食事をしようとしていたなんて知られたら本気でまずい。突如降りかかってきた試練に、私は平静を装って「私もコナン君に呼ばれました」と答えた。……息をするように嘘を吐いてしまった。

「なるほど……コナン君がやけに何度も都合を確認してきたので、おかしいとは思いました……」
「私も今日いきなり電話がきたので、突然だなぁとは思ったんですけど……」

つまりコナン君が安室さんを誘い、赤井さんが私を誘ったわけだ。沖矢さんには今度食事でも、と言われていたので、急だとは思ったが疑いもしなかった。例のホテルでの事件で組織の人と色々あったことに端を発して、ポアロでもずっと顔を合わせなかった。荷物は直接ではなく梓さんに頼んだし、安室さんは元気がない様子だし(演技だろうけど)、それらを総合して私達は喧嘩の最中であると思われていたようだ。私はお昼にご馳走になったスペシャルメニューの味と梓さんの態度を思い出した。どうやってこの状況が出来上がったのか、何となく、想像がつく。

私と安室さんは見つめ合った。

「…………」
「…………」
「安室さん、半笑いじゃないですか」
「いや……こういうことで気を遣ってもらうとは思わなかったので……」
「そうですよね、学生時代の恋愛みたい……みんなグルでしょ、これ」
「ふは、……っくく……」

私と同じ答えに辿り着いているらしい安室さんは耐えきれなくなったのか、顔を伏せて肩を震わせ始めた。私もおかしくてそんな安室さんを見ながら笑ってしまう。小学生とウエイトレスにハメられる現役公安警察官と元・諜報機関の構成員という、おそらくこの瞬間日本でもっともシュールな光景が生まれてしまった。
安室さんは、「はぁ、笑った……」と言って顔を上げたあと、改めて私の顔を見る。

「ゆっくり話すのは久しぶりですね」
「はい……」

低くて落ち着いた、優しい声だ。そんなことはないはずなのに、安室さんの声を聞くのも久しぶりな気がした。
スイートルームで組織の人に迫られた事件が「ゆっくり」に入らないとなると、自宅お泊まり事件以来になるか。……顔を合わせれば全部事件になってるのをどうにかしてほしい。
ウエイターさんが私の分のメニューを持ってきてくれたので、それを開きながら安室さんをちらりと見る。ど、どうしよう。スーツの安室さんがすごくかっこいい。かっこよすぎて唖然とした。それに何よりこのシチュエーションである。女ってやつはこういうのに弱いんだ。よくよくわかっていることなのに、ときめきが止まらない。
やけにじっと見つめてくる安室さんの視線から逃れるように、私はドリンクメニューに目を落とした。




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