Novel


≫新連載 ≫短編 ≫大人 ≫Top

00-2


けたたましいアラームの音に、手探りでスマホを握った。

「んん……」

重い瞼を上げて、ぼんやりした視界に飛び込む11時の表示にゆっくりと体を起こす。昨日は遅くまで友人に付き合っていたため、眠気で頭が重い。久々に休みが合ったので調子に乗りすぎてしまったようだ。どうせ今日は仕事もないのでこのまま寝ていても良かったが、冷蔵庫の中は空っぽであることを思い出して大きく伸びをする。

「あー……お腹すいた……」

声に出したらさらに空腹が襲ってきた。よいしょと呟いてベッドから降り、洗面所で顔を洗う。
平日とはいえ、昼前に行かないと混むな。
水を止めてタオルで顔を拭くと、目が冴えてくる。ストライプの白いブラウスに膝丈のグレーのスカート。それに淡いイエローのカーディガンを羽織ってから姿見の前でスカートの布を下に引っ張る。軽く化粧をして、肩より少し下にある毛先をくしゃりと指で握った。うーん、段々と仕事で着る服に私服が似てきてしまった。なぜ寄ってくる。どうせなら職場でも着られる服を、と思うからなんだよなぁ。それよりお腹が空いた。ま、いいや!と即気持ちを切り替えて玄関に向かう。
よく晴れた日だった。



「はぁ……幸せ……」

フォークにくるくると巻きつけたパスタをひとくち口に運んで、私は感動していた。もちもちの麺に絡まる完熟トマトの甘く深い味と、熱いソースの上でとろとろに溶けたモッツァレラチーズの塩味が絶妙だ。口に入れた瞬間にバジルの香りが広がって、最高の相性をさらに盛り上げている。
この世にこんなに美味しいものがあるなんて。いや、毎週食べてるけど。ぜんぜんありふれたお料理だけど。
ふふ、と斜め上から声が聞こえて目を向けると、エプロンをした髪の長い女性がにこにこと笑っていた。

「あ、梓さん。どうしたんですか?」
「ナナシさん、いつもすごく美味しそうに食べてくれるんですもの。つい見ちゃうのよね」
「や、だってこのパスタ超美味しいですよ!トマトとチーズとバジルは最高の組み合わせ!」
「先週は豚肉とオレンジソースに同じセリフ言ってましたよ」
「そうでしたっけ?」

食べることは大好きだ。
嬉しそうにこちらを眺める梓さんに構わず、私はパスタをぺろりと平らげた。デザート持ってきますね、と空いた皿を手に背を向けた彼女を、今度は私がにこにこと見つめる。このお店はデザートも美味しいのだ。紙ナプキンで口もとを拭いつつ、何となく窓から通りを眺める。平日な上、まだお昼前なので人通りはまばらだ。外回りらしきスーツ姿の人とか、犬を連れたお年寄りとか。

お年寄りといえば、冒頭で変なじじいがいきなり喋り出してびっくりしただろう。私もびっくりした。何せああいった夢を見るのは久しぶりだ。いきなりこんなことを言ったら頭のおかしなやつだと思われるかもしれないが、私は生まれる前の記憶を持っている。前世、というやつだ。
そう、あのじじいは驚くことに、私の前世の姿なのだった。

人間誰しも前世の記憶を持って生まれ、子供のうちはそれを覚えているのだ、という説もある。しかし私の場合は、「なんとなく知っている気がする」「以前同じ場所に来た気がする」という曖昧なものではなく、前の世での記憶をはっきりと引き継いでいた。名前、住んでいた場所などに留まらず、体験して印象に残ったことまでも。20歳を過ぎて前世がどうのこうのと言っているのは占い師かよく分からない宗教のみなさんだけだろう。誰かに話しても、頭のおかしな奴だと思われて終わりである。なので生まれてから今日まで、誰にもこのことは話していない。

私は前の世、普通の人間とはかけ離れた職業に就いていた。詳しく話すと物語が一気に超殺伐とした雰囲気になるので話せないが、冒頭のじじいの感じで察してほしい。
よほど終わり際の私から強い怨念を感じたのだろう。神様が2度目の生を授けてくれた。死んでからすぐに生まれ変わったようで、前の世の自分の死後から今は20年とちょっと経っている。ということは、まだこの世に私の知る人間が生きているということになる。けれど前はアメリカだったし、ここは日本。出会うことはないだろう。会ったとしても相手が私に気付くことは絶対にない。

生まれ変わった場所は平和だった。いや、アメリカが物騒だったとかそういうことではなく。
いま私は、ただの一般人なのだ。偽名を名乗らなくて良い。好物を偽ったりしなくて良い。すれ違う人を疑ったり、足音に聞き耳を立てなくて良い。いまの私には自由しかないのだ。
私の目に映る世界は、知らないこと、経験したことがないことで溢れている。毎日が素晴らしいことの連続だった。こうも世界がきらめいて見える理由は、前世では後悔はないと言いつつも、こういった平和な生活を渇望してやまなかったということなのだろう。

苺のショートケーキを運んできた梓さんが、あ、と声を上げたので、私は思考をとめた。

「そうそう、今度新しい店員さんが入るんですよ!」
「そうなんですか?珍しいですね。どんな人?」
「それがね、すっごくかっこいい人なの。気になるでしょう?」
「うん、気になる!見に来ますね」

かっこいい人がくると聞いてちょっとだけウキウキした気持ちになる。こういうのも、女性の楽しいところだ。もちろん前世でも異性にときめくようなことはあったが。やはりそこはあれだ。男とは下半身直結の生き物なのだ。きゅんとする場所が違うのである。

生まれ変わって予想外だったことのひとつがこれだ。私は女になった。この世に生まれ落ちたはじめこそ驚愕したものだが、既にこの姿で20年以上生きている。さすがに慣れたし、前世の記憶があるからといって女性を好きになるということもなかった。これはまあいい。男では経験できなかったことはとても楽しい。化粧ひとつで別人になれるような感覚は変装の必要上、随分経験したが、そこに喜びを見出す日が来るとは思わなかった。服も種類がたくさんあるし。つまりおしゃれが楽しい。

ふたつ目の予想外が少々厄介だった。完全に記憶を持って生まれ変わってしまったがために、気を抜くと一般人離れした行動をしてしまうのだ。その道で60年も活動をしてきた私は、2歳にして隣の家の旦那さんの不倫に気付き、3歳で近所で起きた無差別殺傷事件の犯人を突き止めてしまった。まず何をしたら常識外な行動になるのか、そこから学ばなければならなかった。
持って生まれたスキルは、ごく普通の暮らしを夢見る私にとって邪魔でしかなかった。私はとにかく、何も知らない子供のような無垢さでこの世界を楽しみたいと思っていた。美味しいものに素直に感動し、好きなことを学び、たまにはかっこいい異性にドキドキして。
ならどうすれば良いか?
何に気付いても素知らぬふりを通し、偽りの安寧に身を横たえるか。否、それでは無垢とは程遠い。
ならば昔のように、自身の狭い世界を掌握し、一片の罪の介入も許さないようにした上で思うままに生きるか。しかしそんなことを続けていれば、いずれ私は何者かによって外の世界に引きずり出されるだろう。

何が正解なのかは、この世に誕生して二十数年目の今日も分からない。
ただ、この瞬間にも迷いなく言えること、それは。

「梓さん、苺のタルトレットも追加で!」

まだ食べるの!?とカウンターから声がしたが、聞こえないふりをした。

やっぱり甘いもの、最高!

これは私が、ごく普通の素晴らしい生活を守りたいがために奮闘する話である。




Modoru Main Susumu