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13-11




ナナシさん、と、名前を呼ばれた。
纏わりつく視線から、両腕で自身を覆い隠してしまいたい。吐息がかかりそうな距離で囁かれる低い声が妙に心地良い。なのに、同時に恐ろしい。顔を背けたままの私を気にした風でもなく、男は呟いた。

「僕の名前、教えてませんでしたね」

その言葉で、男の言うあの夜がいつのことなのかを知る。

……いいですよ。あなたの名前、教えてくれるなら……。

自分がこの男に言った台詞がはっきりと蘇った。パーティーの騒めきから外れた夜のバルコニーで、ふたり。部屋に誘ってきたのは、確かに目の前の男だ。これはあの時の続き、なのだろうか。ならばここで男の名前を聞いたら……。息が詰まる。おそるおそる視線を遣ると、その薄い唇が何事かを声にしようと開かれたので、私は慌てて左の手のひらで男の口元を覆った。柔らかな唇の感触と息づかい。男が瞬きをひとつして目を細める。
大きな手が私の左手をそっと引き剥がして、きゅっと握り込んだ。

「……何?」

親指の腹で私の手の平の中心をくるりと撫でて、男は首を傾げる。すらりと綺麗に見えてもやはり男性の指だ。硬くて、ごつごつしていて、指先は少しだけ荒れている。中指と薬指の間に差し入れられた長い指が根元から先端にむかって皮膚をツツとなぞり上げ、ぴくりと反応して折れる小指を絡めとった。そうして握り込んだままの私の手に顔を寄せ、ちゅと手首に口付けてくる。手首へのキスの意味は、なんて考えずとも、唇を押し当てたままの男と視線が絡み合えば、その情欲が向かう先は私しかないのだと思い知らされた。
褐色に取り込まれたいやに白く華奢な女の手が男の好きにされるのを、揺らめく視界でどこかぼんやりと眺める。薄い涙の膜を通して、ずっとこちらの様子を観察していた男が、こくりと、小さく喉を鳴らすのを見た。
恐怖も、少しあるかもしれない。だが、恐らく私は酔っているのだろう。いつか誰かに言われた、絶対的な自分への信頼と自信はいつだって揺らがなかった。それを突き崩すかもしれない男の存在は、私を酷く動揺させる。もしも私が男のままだったのなら、狼狽し、距離をとるだけで済んだかもしれない。けれど今は。女のさがとでも言うのか、そのような相手に組み敷かれ、踏み躙られたいという欲求が私を突き上げる。浅ましく、己が女であると強烈に意識して、しかしその相手がこの男ならば悪くないと思う自分もいた。

男が私の手を解放した。恋人に内緒話でもするかのように、甘い声が囁くようにねだる。

「ねえ、僕ともキスしてくださいよ」
「いや」
「……ナナシさん」

近付く唇から逃れ、横を向いて拒絶した。
唇を受け入れれば、それは屈したと同義であるような錯覚を覚えた。男の言う通りに一件から手を引いて、まるで囲われるように過ごすなんて、そんなことは。
顔を背けたことで晒された首すじに息がかかる。優しく吸い付いてきた唇が、肌を幾度も食みながらゆっくりと肩口に向かって下りて行く。たったそれだけで体の芯から痺れた。無意識に男の肩に置いた自分の手指は、押しのけたいのか、縋りつきたいのか分からない。ただ女を喜ばせるためではない、肌の感触を確かめるように繰り返される緩やかな行為は、男の吐息とともに次第に乱れて行った。鎖骨の上を、ちゅぅ、と強く吸われて、甘い痛みにはっと息を飲む。

「やっ……ま、待って」
「…………」

離れた唇が再び同じところへ吸い付いた。あ、と、普段の自分とかけ離れた情けない声が漏れ出る。顔を上げもせずに人肌に耽る男の唇は熱を持って、やがて、足りないとばかりにもっと熱いものがぴちゃりと肌を撫でた。

「あっ……」

味わうように這わされる舌が、敏感な薄い皮膚の上を何度も往復する。びくりと体を震わせる私の耳に、淫靡な水音が静かな部屋にやけに大きく感じられて、肩を掴む指にぎゅっと力を込めた。私のそれを抵抗と取ったのか、男が体勢を変えてギシリとベッドが軋む。散々弄んだ箇所に歯を立てられて、ぞくりとする痛みに金色の髪を引っ張った。

「んッ……やだ、ねぇ、ちょっと待って……」

懇願が独り言のように響く。どうあってもやめる様子はない。途方に暮れて男の頭を抱き込んだ。
気付くのが遅かったけれど、服がこんななのだ。既に人前に出られなくなっている可能性が高い。というか、私は今夜ここから出られるのだろうか。ほんの少し我に返った頭で弾む息を整える。

ベッドに無造作に放られたままの、男のシルバーの愛銃がちらと視界に入った。……あれ、手を伸ばせば取れるかな。手が短いから、どうだろう。

そろりと、手を伸ばした。





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