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13-10




「あの男から手を引いてください」

青い瞳に、少しでも隙を見せたら囚われてしまいそうだ。男が握り締めていた手をゆっくり開くと、めちゃくちゃになった赤い薔薇の残骸が無残にシーツの上にぽとりと落ちる。唐突にそんなことを言われて、一瞬私の脳裏に嶋崎さんともう一人の男の顔が浮かんだ。差し出された赤い花の向こうに見たグリーンアッシュの色。この状況ならどちらの男のことを言っているのか明らかであるものの、沖矢さんの正体を知っているのではないかと思ってしまう。

「……今度は何を言い出すんですか?」
「あなたが関わるような問題じゃないと言っているんです」

この人の目的は嶋崎さんに会うことだったはずだが、私がここで手を引けばそれも叶わなくなる。せっかく私を捕えたのだから無理にでも呼び出させるか、懐柔して言うことを聞かせるのが普通だろう。頑なな私の様子を見て諦めたか。いや、そんな男ではない。私がここに嶋崎さんを呼び出した後に、最終的には手を引かせるつもりだったか。けれど、私は経営者一族でも会社関係者でもない部外者だ。そんな人間がターゲットの近くにいるのだから、利用しない手はないだろうに。

「心配してくれてるんですか?私のこと」
「……」

真意を探ろうとしても男の表情からは何も読み取れなかった。薄く開いた唇は、結局何も言わずに再び引き結ばれる。メイちゃんの写真を入手できる位置に組織の人間がいたということは、私のことも当然知られているのだろう。だとしたら、そんな私をみすみす見逃すことは組織の人間にあるまじき行為だ。専務の件のように、始末した、とでも言ってどこかに閉じ込めるつもりなのかもしれない。私はそんなのはまっぴらごめんである。
押し付けられたままの腕が痛くなってきて身じろぎすると、ようやく、びくともしなかった男の左手が離れて行った。

「以前、あなたは巻き込まれたくないと言っていましたよね。それなのに自ら危険を冒すような真似をする……あなたの行動は矛盾している」
「変な事件に巻き込まれるのが嫌なのは当たり前でしょう?それに、私だって好きで危険な目に遭ってるわけじゃないです」
「なら、今ここで忠告します。あの嶋崎という男と関わりを持つのは危険です」
「そうでしょうね。けど、知ってしまった以上は見過ごせないこともある……そういうことです」

知ってしまった。

この一言で十分だ。何を知ったのか、それは今重要ではない。実際、私は今日初めて嶋崎さんから「妙なことが起きている」と聞いただけで、何も知らないも同然だ。だが、彼が公安として職務に忠実であればあるほど、組織で従順な犬を演じれば演じるほど、この言葉を無視することはできない。これで、私を何の関係もない一般人として保護することはできなくなったのだ。

「それを僕に言うんですか……」

男が、深い溜息を吐いた。もうここら辺が潮時だろう。私は拘束されていた手首をさすりながら、男の下から這い出ようと体を捩る。しかし、それは再び伸びてきた腕によって阻まれてしまった。

「……あの、まだ何か?」
「今日は随分と挑発的な格好ですね……さっきも、色々な人に見られていたでしょう」
「い、いまさら?」

さっきあれだけのことをしておいて今更それを言うのか。訝しむ私に跨ったまま上体を起こした男は、黒いジャケットに指を掛けてそれをするりと脱ぐ。その下に身に付けていた黒いレザーのショルダーホルスターも肩とベルトの固定から外して、ベッドに無造作に放った。……な、なぜ脱いだ?目を丸くする私を上からじっと見下ろして視線を合わせたまま、男は、白いシャツの襟元からワインレッドのタイを真横に引き抜く。しゅるりと音がして、褐色の指からぶら下がったそれに目を奪われていると、ふわりと空気が動いて甘い香りが強くなった。

「考えが変わったら言ってください」
「っ……!?」

耳に直接流し込まれる低い声に息を飲む。明確な意図を持って覆いかぶさってきた男の腕に、体に押さえ込まれて身動きが取れない。いきなりの展開に理解が追いつかずに慌てて肩を掴んで押したが、そんなことでどうにかなるはずもなかった。薄着になったことでより密着する体温が余計に私を混乱させる。内緒話をするような距離で、私の耳に唇を寄せたままの男の息遣いに、ぞくぞくとした。

「な、なに?ちょっと、何なんですか……!」
「あの男から手を引いてくださいと言ってるんです」
「だから無理だって、わ、私の話聞いてましたか!?」
「あなたこそ、人の忠告は真面目に聞いた方がいい……どんな目に遭っても知りませんよ」

ちょっと待て、さっきの真面目なやりとりをなかったことにするつもりか。結構尺取りましたけど!?回避されたはずの方向に再び流れが戻って、どうにかしなければと、全力で抜け出そうともがく。しかし蹴り上げようにも密着しすぎていて、片方だけ履いていたパンプスがベッドの上で脱げただけに終わった。そうこうしている間に柔らかくて温かいものがそっと耳朶を食む。ひっ、と小さく声を漏らすと、ぬるりとした感触が耳朶から上に向かって窪みをたどるように這った。

「や、」

擽ったさに身を縮こませる私に構わず、今度はかぷりと甘噛みして柔らかな舌先で悪戯につついてくる。呼吸音や、たまに唇から離すときのちゅ、というリップ音がダイレクトに伝わってきて、あまりの羞恥に震えた。舌が這うたびぞくぞくと肌が粟立って、目の前にある広い肩にしがみ付く。

「ぁ……っ、や、やだ……っ、安室さん!」

拒絶の声をあげても返ってくるのは吐息のみという状況で、いよいよ私は焦った。男と女の力の差は歴然である。本気で抵抗してもどうにもならないのって、絶望感が半端ないな。や、というよりちょっと力が入らないんだけど。正直、泣きそうだ。それでも精一杯に男を押しやろうと力を込める。

「こ、んなことしたって無駄ですから……!」
「そうですか」
「無意味なことは、やめてください!」
「……無意味?」

く、と喉の奥で笑う気配がした。あの、悪い人っぽく笑うのやめてください。もう雰囲気に飲まれて泣く。少しだけ顔を上げた男が、じっと私を見下ろしてくる。青い瞳に揺蕩うのは、今までの彼からは向けられたことのなかった灼然たる情。長い指が私の頬を撫でる。愛おしむように、優しくゆっくりと。けれどそれは、これから餌食になる哀れな獲物が震えるのを恍惚と眺めているようであって。
気付きたくない、知りたくない。

「……僕はずっとこうしたいと思っていました。あの夜から」

とうとう耐えきれなくなって、私は逃げるように顔を背けた。




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