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12-3




「私の会社の専務……」
「…………」
「……のことで確認したいことがあるってFBIの人に言われたんです。でも、急用ができたみたいでずっと部屋で待たされていて……」

安室さんは専務という単語には無反応だった。瞼も眼球も瞳孔も動かない。自分が深く関わっているのに、この徹底した無反応ぶりには恐れ入る。あの時の人と、この人が別物だからできる芸当なのかもしれない、と思って目の前の男を見上げる。

「それで、2日経ってからやっと赤井さんが……あ、別のFBIの人が部屋にきて」

赤井さんが来るまでの2日間はほとんど放置されていたので、そこは省略しても良いだろう。いま思い返しても多少イラっとくる。そう思って赤井さんの名前を出した途端、今まで無反応だった安室さんの眉がぴくりと動いた。長い彼の指から、絡めていた毛束がするりと滑り落ちる。

「……他のFBIの名前は知らないんですね?」
「はい、名乗る暇もなく出て行ってしまって」
「あの男が初対面の相手に名を明かすとは思えません。前にも会っていたんじゃないですか?」

はい、その通りです……。沖矢さんだけど。さすがにそれを言うことはできないので、私は何も言わずにふるふると頭を左右に振った。本当に?と目で問うてくる安室さんに、こくこくと頷いてみせる。
おそらく赤井さんは、私が沖矢=赤井さんだと気付いたからこそ名乗る気になったんだろう。私があの時、ふたりが同一人物だと気付いた理由は歩き方だ。当たり前だが歩き方はひとりひとり特徴がある。沖矢さんに初めて会った時、左手の振りが右よりも小さかったので気にはなっていた。片方の手の振り幅がもう片方より小さい。それはとてもわかりやすいある職種、またはある物を隠し持っている人間の特徴である。それを隠すためにポケットに手を入れているということもままあるのだが、さすがに無害そうな女の前ではそこまで気にしなかったのだろう。そして、脚の長さや足運びはそうそう変えられないものだ。
個人を特定できるのは歩き方だけではない。例えば、人が歩いた跡。土に残された足跡から、体格、行き先、状態、感情まで読み取ることだってできてしまう。もともとはネイティブ・アメリカンが狩をする上で身に付けた技術で、アメリカでは教えてくれるスクールまであるのでそこそこメジャーな技術だと言えよう。ただ、アメリカ本土にいないとなかなか触れる機会はないかもしれない。そして、安室さんが駐車場で私を見つけた例のあれも、もとをたどれば同じくネイティブが生み出した技法の精神を汲むものである。

「実は私、専務の愛人だと勘違いされてて……赤井さん達は行方不明の専務を探してるみたいでした」

またも、安室さんのこめかみがピクリと引き攣った。おや?と思いつつ、その後すぐに解放されて大通りで安室さんに会ったことを話す。安室さんは私から視線を外すと、瞼を閉じて考える素振りを見せた。

「なるほど……さっさと済ませたのが仇になったか」

そして小声で何か言ってる。
なぜ私が愛人だと思われたか、というところを気にしないのは、安室さんもあの写真を見ているからなのかもしれない。安室さんとFBIが情報を共有している可能性は低いので、あとで流出ルートを洗い出さなければ。
考え込む姿もイケメンだなと思って彼の横顔を見ていると、ぱちりと目を開いた彼が再び私の顔をじっと覗き込んできた。

「それで?」
「え?以上です」
「あの男は危険な男です。何もされなかったでしょうね?」

やはり安室さんが怒っていたのは、私と赤井さんが接触したからだったんだ。赤井さんに対して危険な人間という印象は抱かなかった。ただ者じゃない感じがしてぞくりとはしたけれど。どちらかといえば、話を冷静に聞いてくれそうないい人だと思う。まぁ、安室さんがここまで警戒するのだから色々と裏の顔があるのかもしれない。
安室さんも、今の話で決して私が特定の誰かと2日間一緒にいたわけではないと分かってくれたことだろう。よ、よし。なんとか2泊3日を阻止できるかもしれないぞ。誤解が解けたと思って安心した私は首を左右に振った。

「あ、いえ、危険なんてことはなかったですよ。 何かあったら連絡していいって、言って……まし、た……し……」

よかれと思ってした赤井さんのフォローだったが、最後のほうはほとんど声にならなかった。何故なら、私が喋るたびに安室さんの周囲の温度があからさまに下がっていったからである。それはもう、スゥ……っと冷えていった。下がりすぎてみるみるうちに凍りついた空気にヒビが入る。音で表すならピシッ!だ。……こ、これは……!?
すぅ、と、か細い空気の音がして、安室さんの薄く開いた唇がゆっくり息を吸い込んだ音だと気付く。

「……分かってはいましたが、なかなかに堪えますね……」

溜息、というよりも感情を押し殺すためにゆっくり息を吐いて、安室さんが言った。
こたえるってつらいとかそういう意味ですよね。それ堪えてる顔じゃないです。キレそうですよね?今にも危ない線を超えてしまいそうな安室さんの顔にびびりまくった私は、とにかく何か話しかけて気を逸らさなければと思った。けれどそれは間違いだったと後から知ることになる。

「あ、あの!赤井さんと……」

何かあったんですか?という質問は途中で途切れてしまった。赤井さん。その名を口にした瞬間、柔らかな感触が唇に当たってそれ以上を言わせてもらえなかった。……え??突然の行動に驚いて瞬きを繰り返す。眼前には今のいままで私を尋問していた安室さんが。

「っ……」

いや、待って。なんで?いまそういう雰囲気じゃなかったですよね。さっきから妙な部分で反応するなとは思っていたけど、もしや赤井さんって呼ぶのがNGってことなんですか?赤井さんのことを聞かれてるのに、赤井さんという名前を出さずにどう会話しろと……!?というか、キスで塞ぐ必要ってあったか!?
驚きに固まってろくに抵抗できないでいると、触れていた唇が離れて、再び近づいてくる。

「え、ちょっ……んん、……」

さすがに2度目は腕を突っぱねて抵抗を試みるが、壁際に追いやられていることもあってどうしようもなかった。顔をそむければ大きな手で頭を固定されてしまい、逃げ道がない状態で唇の端、下唇、上唇と、優しく啄むだけの軽い口付けを何度も繰り返される。ちゅ、と、いちいち音を立てて知らしめるようなキスに意識が簡単に持っていかれた。
触れるだけのそれが擽ったくて身を捩ると、彼の反対の腕が身体に回されて引き寄せられる。つ、強い。腕が。頬に感じる鍛えられた胸板に一気に体温が上がる。あまりにも密着した体勢と相手の匂い。騒がしい鼓動が伝わるのが恥ずかしくて身じろぎをするが、それすらも許さないとばかりに今度は反対の腕が私に絡みついた。人って強く抱き締められすぎるとまったく動けないんだな、と思うほどにどうにも動けない。
深く、息を吐く音がした。染みついた癖のようなものかもしれないが、いつの間にか、彼の呼吸に合わせている自分がいる。
そうしているうちに意識が研ぎ澄まされて、体に彼の鼓動が伝わってきたので、私は思わず息をのんだ。これ、安室さんは嫌じゃないのかな……。過去の私だったら、他人に自分を聞かせてしまうようなことは絶対にしなかった。もし、過去の自分がそれをするとしたら、その相手は真に心を明け渡すこともいとわない、そういう……いや、待て。考えたらいけない。私と彼は別の人間なのだから、イコールで結ぶことはできない。けれど自分と似ている彼のことをほんの少しは分かっているから、それがまったくの見当違いでないことも分かるのだ。熱い。羞恥で余計に熱くなった。今の私はたぶん耳まで赤くなっているに違いない。もうだめだ、恥ずかしい。消えたい。
その心音は、私と同じくらいの間隔で。それすらコントロールしているというのなら、もう降伏するのでどうにでもしてほしい。はぁ、と溜息を吐いて、彼の胸にぐりぐりと額を押し付けた。

「安室さん、痛い……」
「……すみません」

体に直接響くような低くて甘い声。腕は緩む気配もない。
……駄目だ、打開策をと思ったけど何も考えられない。こんなに強く異性に抱き締められるのは初めてなので新たな発見だが、女の力でここから抜け出すのは無理があるなとぼんやりしてきた頭で考えた。酸欠で。
しかし、私は何を間違っただろうか。ひとつだけ言えるのは、この人のNGを探らないと今に大変なことになる……ということである。

「……苦しいってば……腕、緩めてください……」

安室さんは黙っていたが、しばらくしてからようやく、買い物に行きましょうか、とだけ呟いた。
2泊3日は覆りそうもない。




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