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09-2




「なんて、安室さん、今日は別人みたいなんだもの。疲れちゃったんですか?」

握っていた指を解いて、一歩後ろに下がった。冗談めかして笑いかけると、表情の読み取れなかった彼は瞬きをひとつして、そこからはもういつもの顔に戻っている。さすがだ。先程まで触れ合っていた自身の指を見つめたあと、彼がぽつりと呟いた。

「……そうみたいです」
「たまにはお休みしないと駄目ですね、お仕事。今日はもうお家に帰ったほうがいいんじゃないですか?」

大人の男性にあんまりな言い草だと我ながら思うが、言われた本人は惚けたようにじっとこちらを見つめていた。正直なところ、私はこの瞬間、誰に話しかけているのか分からないでいる。

「…………ねえ、ナナシさん」
「はい?」
「ナナシさんは、家でどうやって過ごしてますか?」
「え?大したことはしてないですけど……録画したドラマ見たり、本を読んだり……」

唐突な質問の意図が分からず、私は首を傾げた。本当に大したことはしていないし、特に改めて言えるようなことは何もない。聞き返して欲しいのかと思い、安室さんは?と尋ねるが、答えは返ってこなかった。

「もしかして、家に帰っても何もすることがないとか?」
「……そうとも言えるかもしれませんね」
「うーん……」
「つまらない男でしょう」
「そんなことないですけど」

つまらない男という単語があまりにも不釣り合いで、ふふ、と笑ってしまった。言った当の本人は、つまらない男と言いつつもまったく気にしている様子はない。事実を述べただけ、という淡々とした口調で、感情の動きはまったく見られなかった。
前に安室さんは、家でポアロのメニューの試作をしていると言っていた。何もすることがないというのは、別の誰かのことなんだろう。……いや、混乱するから。そういう精神的っていうかナイーブな話題、人を選ぶからな?と思いつつ、さっきまでの悪い組織の人はどうやらどこかに行ってしまったようなので。私はしみじみと目の前の人を観察して、両腕を組んで頷いた。

「真面目な人なんですね」
「それは褒め言葉ですか?」
「あー、違うかも」
「でしょうね」
「私に褒められたいですか?」
「……わりと」

ふざけて聞いたのに真顔で答えてきたので、思わず吹き出した私は肩を震わせた。そこは笑って「はい、褒めてくれますか」とでも言うところだろう。安室透なら。

「ナナシさん、今日はよく笑いますね」
「私、いつもこうですよ?」
「確かにそうですが、いつもと違う気がします」
「そうかなぁ……」
「僕を騙してどうするつもりですか?」
「やだ、こないだ女の子を騙してるって言ったの根に持ってるんですか?」
「別に」

自分がさっき色仕掛けで私を騙そうとしたのは棚上げである。前々からちょっと思っていたのだが、この人、ちょいちょい行動や思考が私と被ってくるのは一体どういうことなのだろう。大胆な手口を使うけれど、慎重で、どこかで見たことがあるような気がしたり。ひょっとしたら彼は、かつての私にとても近い存在なのではないだろうか。その視点から見た時、今まで謎だった彼の行動の意味も分かるのかもしれない。
そこでふと、思った。彼にはいないのだろうか。
隠されてしまった本来の君の心に訪う人がなくとも、大切なことはあるのだと言ってくれるような人は。
偽物の自分のためではなく、たとえば庭のハーブを枯らさないように水をやるだとか、そういった何の意味もない些細なことが、本当の自分自身を繋ぎとめる楔になるのだと。自分の境界が消えていく感覚は恐ろしい。作り上げた偽物が何かのきっかけで我が物顔で行動を始めたなら、そこから常に戦い続けなければならないのだ。

「安室さんが今日はあんまり笑わないからですよ」
「僕、笑ってますよ?」
「さっきのは、目が笑ってなくて怖いのでやめてください」
「……それは酷いな」
「じゃあ笑ってみせてくださいよ、いつもみたいに可愛く。せーの」
「何で今日に限って絡んでくるんだ、あなたは」

彼は前髪を掻き上げて、はぁ、と溜息を吐いた。最近気付いたことだが、溜息を吐く彼はわりと素の状態に近いらしい。ちょっとだけいい気分になって笑っていたら、素早く伸びてきた腕に手首を掴まれた。

「……ん?」
「そんなに離れてたら見えないでしょう、笑った顔」
「えっ!」
「ほら、もっと僕に近付いて」

ぐいと引き寄せられて、息遣いを感じるほどの至近距離。彼が私をじっと見下ろしているのが分かる。視線を上げれば、ミルクティーブラウンの前髪の間から切なげに青い瞳が揺れていた。
いやー、これは惚れるわ。惚れない要素がない。むしろ、落ちない女ってヤバいのでは?先程までは分かりやすく私を陥れようとしていたのが分かったのに、今はこれが演技かどうか見抜けない。少なからず私が彼の術中に嵌ってしまっているからなのか。ひねくれた恋愛ばかりを経験してきた私は、真っ直ぐ分かりやすい態度や言葉には滅法弱い。これが彼の中の純粋なのか、攻める手法を変えたのか、判別不能なほどに私はドキドキしていた。だいいち顔がかっこいい。
同時に去来するのは、ずっと押し留めていた願望。この若くて綺麗な男の全てを暴いてやりたい、そんな欲求が湧いてくる。いや、年齢は私の方が年下だろうけれども、何となくだ。綯い交ぜになった感情を胸にじっと見つめ返すと、彼の肩がぴくりと跳ねた。

「さっき、僕のことを怖いって言いましたよね」
「……」
「僕も、あなたが怖い」

彼の顔が近付いてきても、今度は動くことができなかった。
触れた唇はあたたかくて柔らかい。
禁じられた領域への侵犯こそが快楽であると、そう言ったのは誰であっただろうか。
名前も知らない彼の唇は、これまで口にしたどんなものよりも甘美だった。




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