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09-1



その姿を意外な場所で見つけて、思わず「あっ」と言ってしまった。
漏らした声は会場のざわめきに掻き消され、とても本人まで届きそうにない。
とある海洋学の研究チームが国際的な賞を受賞した記念のパーティー。場所はホテルだ。私は相変わらず人の付き添いで来ているのだが、当の依頼人が私を放置して受賞者である研究者と難しい話を始めたので、少しずつ少しずつ離れてようやく今、壁に到達したところである。
ドレスコードもない気軽なお祝いなので、装いは黒いワンピースを着て適当に髪をアップにしているだけだ。襟元からフロント部分にピンタックの入った、裾の一部だけレース仕様のワンピースは気合いの入りすぎない場にピッタリで、なかなか使い勝手が良くて気に入っている。こういう場所に来る機会が多いせいでクローゼットの中が嵩張って仕方がないのは悩みの一つだ。依頼人が用意してくれることもあるのだが、後々面倒になると困るのでいただくことはない。まあ、嶋崎さんとかあの辺にプレゼントされると雰囲気的に断れないのだが。
壁際のテーブルからフォークを一本とる。ちゃんと食べ物を確保しているので心配はいらない。逃げてくる途中でお皿に盛り付けたグラタンを口に運んだ。蟹のほぐし身がたっぷり入ったクリーミーなホワイトソース。美味しい。その隣に乗せたチキンとポテトのオーブン焼きもオリーブオイルと塩のみのシンプルな味付けだったが、外はパリパリで中は柔らかく、じゃがいもの甘みが……、……何ということだ。食べることに夢中になっていて、さきほど見つけた人物を見失ってしまった。ざっと見渡していないということは柱の影になっているとかお手洗いとかだろうか。視線だけ動かして辺りを確認しながら、ポテトをフォークで刺す。もう一口かじったところで、背の高い金髪の男がバルコニーの方にゆっくりと歩いて行くのが見えた。……い、行きたくないなぁ。けどおそらく、行かなかったらお迎えが来るんだろう。一瞬、お皿に山のようにグラタンを盛って行こうかとも考えたが、私は空気を読んだ。
手近なテーブルに空のお皿を置いて、てくてくと、彼の後を追いかける。バルコニーに出て端まで行ったところで止まった彼は、初めから私が追いかけてきていることが分かっていたようにくるりと振り向いた。

「こんばんは、ナナシさん」
「安室さん、いらしてたんですね。こんばんは」
「ここにナナシさんがいらっしゃるとは思いませんでした。研究に興味があるんですか?」
「いえ、全然。知り合いに人数が足りないからって呼び出されちゃって。今も難しい話から逃げてきたんです」

会うのはショッピングモールに行った日以来なので2週間ぶりだ。その間、ポアロに何度か行ったけど彼の姿はなかった。ネイビーのシャツに黒いパンツというシックな服装でまったく派手ではないのに、バルコニーの手すりに片肘を預けた彼は、久しぶりに見ても相変わらず目を惹く。そして感じるのは、あの時とはまた別の違和感だった。妙な感覚の正体を探ろうとして思わずまじまじと見てしまうと、彼が唇を薄く開けて笑う。

「僕の顔に何か付いてますか?」
「あ……いえ、なんかいつもと違いますよね……?」

どこが?と首を傾げる些細な動きでさらりと流れる金色の髪。彼は確かにいつものように笑っている。

「うーん……ちょっと怖いです」

感じたままにそう告げても、彼の表情が変わることはなかった。今までも完璧な笑顔が逆に怪しかったり、人好きのする笑みを意図して浮かべているのだろうなぁと感じることはあった。それをしていたのは安室さんだ。けれど目の前の男は、まるで別の人間のように思える。彼は、安室透という人物が"作り出した"人間ではない。ような気がする。それはとても不思議な、上手く説明できない現象だった。そこで確信できることは、安室透という人物もまた、何者かによって作られたものなのだろうということ。
一歩、彼が近付いてくる。既に笑みは消えていた。

「……安室さん?」
「ナナシさん。戻ってきましたよ」

ぼく。と言ったきり、ジッとこちらを見つめて喋らなくなったので、あの時と同じように手を伸ばして、柔らかな彼の髪を撫でた。

「そうですね……おかえりなさい」
「はい。どこに行っていたか分かりますか?」

そう問われて一瞬悩む。コナン君に聞いているので分かっているし、ひょっとしたら私がその答えを知っているのだということに気付いているのかもしれない。私は彼の髪から手を離すと、曖昧に口を開いた。

「遠いところ、ですよね」
「遠いところ……ですね」

彼は瞼を伏せて少し笑う。……目の前の人が安室透じゃないなら例の危ない組織の人なのだろうが、そんなにキャラ変されたらこちらも対応に困る。というか普通、誰に会うときはこのキャラ、って固定するでしょ?私に対してはずっと喫茶ポアロの安室透で大丈夫です。今の彼を安室さんと呼ぶのは結構微妙な気がするのだが、名前を知らないので仕方がない。

「ナナシさん、黒い服も似合いますね」
「ありがとうございます」
「髪を上げているのも初めて見ました」
「そうですね、いつも下ろしてるから……」

自然な動作で、褐色の指にするりと頬を撫でられて瞬きをする。他の人間がやったら事案になりそうな行為でも、この人がするとただ絵になるばかりだから困りものだ。パーティー会場の騒めきを遠くに感じる夜のバルコニーで、ふたり。こういうシーン、物語にありそうだなぁと考えていると、彼は指で自分の胸もとをトンと叩いた。

「僕は?」
「うっ……いつも通りカッコいい、ですけど」

面と向かって言わされるのは恥ずかしい。さっき少し飲んだせいもあるかもしれないが、顔が熱くなってきた。ふ、と笑った彼の顔が近付いてくる。

「あ、」

触れあいそうな距離から、顔をそむけてやんわりと逃れた。
意図を持つ指先が再び頬を撫でてきて、見たくないのに強制的に視線を合わせさせられる。やはりそれは知らない男だった。

恥を忍んで、正直に言おう。
かつての私は普通の恋愛をしてこなかった。もちろんそういったことをしなかったわけではない。むしろ色恋の経験は豊富なほうだ。そう、主に色仕掛けで迫って体の関係を持ち情報を聞き出したり、結婚を匂わせて情報を引き出したり、そういう方向で。最低なヤローだと罵ってもらって構わない。しかし様々な思想が渦巻き人種が混在する世界で、半分が自分とは別の性別を持っているのだ。本当に役に立つか分からない人間に対して趣味が何だとか、休日はどこで何をするのだとか。そんなことを一から調べ上げるよりも、こいつは女、こいつは男、と。それは一番分かりやすく目に見える人間を区別する記号。目的を遂げるためには時に最速で最上の手段となり得るのが、男女の関係だ。情報を手中に収めようとする者でそれを意識しない者などいない。
危険な世界に身を置く以上、仕掛ける相手もそれ相応の危険な人間であり、常に警戒と懐疑心が必要だった。なので、そういったことを企んでいる相手の態度は肌で感じ取れるのだ。今までの彼からは感じられなかった、あからさまな思惑。何が目的なのか知らないが目の前の男は、私に色で迫るつもりのようである。

そんなわけで、目の前にいる誰だか知らない男と私の相性は最悪だろう。しかし、近い。罠だと分かっていてもこの顔を前にするときゅんとしてしまうのは最早どうにもならないので、なるべく顔を見ないようにしつつ、悪さをしないように彼の指を捕まえてきゅっと握る。その行為をどう思っただろうか。誰に聞かれるわけでもないのに、彼は内緒ばなしをするかのようにそっと私の耳元で囁いた。

「ナナシさん……今日はここに部屋を取ってるんです。僕の部屋で飲み直しませんか?」
「……いいですよ。あなたの名前、教えてくれるなら」

普通に断れば良かったのだろうが、出てきたのはそんな言葉だった。
その一瞬、彼からすべての表情が抜け落ちた。



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