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24-1



暗闇の中と知っていながら目を開けた。あれからどれくらい経っているのか分からない。
意識がまだ存在していることを悟り、無意識に手を顔の前にかざしてみる。当たり前だが何も見えない。感覚はうっすらとあって、自分は立っているようだった。

……橋の上だ。踏み締めた橋板が発する独特の音で、見えずともそれが分かった。ということは、この下に流れる川がある。
手探りで歩くと欄干と思しきものにぶつかった。視界が真っ暗なので意味はないが、そこから下を見おろしてみる。耳を澄ますと流水の音が聞こえるような気がした。ただ、川が自分の真下に流れているとわかっただけで何も起こらない。

……予想が正しければここは死後の世界ということになるだろうか。庭で眠って、おそらく死ぬのだろうと思った記憶はあるのだが……死ねば無が待っているだけだと考えていたがそうではないらしい。しかし、こうも暗いのでは何もできない。あるのは橋と川らしきものだけ。

もう少し近くで音を聞こうと考えて身を乗り出すと、腕を掴まれた。間違いなく人間の手の感触。振り向いてみても姿は見えない。他に誰かがいたことには驚きだ。もっともこんな場所だから相手が生きているとは断言できないが。欄干がある構造上、後方にいるのだと予測できる。ひょっとして引き止められたのだろうか。こちらの様子が見えているのなら飛び降りと思われても無理はない。一歩踏み出した足は引っ込められなくなっている。
……大丈夫だ。背後の人間に語りかけたつもりで、声は出なかった。
本当はあのとき、一緒に行きたかったんだ。おそらく彼女が望んでいたであろう何でもない日常とでもいう、そんな生活を共にしてみたかった。
離してもらおうと身じろぎをすると、思いがけず自分の口から声が出る。

「こうなってはあなたに迷惑を掛けてしまうからな……俺は大人しく消えよう」

相手が戸惑う気配が伝わってくる。唐突な台詞だった。誰かも分からないのに、なぜ、何のために話しているのか。だが伝えなければならなかった。

「俺の行き先ははじめから決まってたんだ」

掴まれた腕が熱を持っていた。もうとっくに死んでいるだろうに、不思議なことだ。いや、もしかするとここから飛び降りれば本当の死が待っているのかもしれない。この腕の主はそれを知っていて、死に行く自分を引き止めようとしているのかもしれない。だが引き止めてもらったところで最早この体は長くはないだろう。早々に散った仲間達とは違ってしぶとく年を重ねてしまった。こうして記憶に懐かしい橋の上で最後を迎えられるのだ、ここで消えるのが最良に思えた。……そうだ、あの人の名前も聞きに行かなければならない。

「楽しかった、ありがとう」

相変わらずなぜ自分がそんな言葉を口にするのか理解できなかった。
最初から相手の声が聞こえていないのか、それとも絶句したのか……返事はない。

真っ暗だから、彼女の見た景色を辿ることはできないけれど、確かにこの体は投げ出されて、落ちていった。






耳元でけたたましい音が鳴り響いた。

「ん……朝……」

手探りでスマホを握り、アラームを止める。朝だ。仕事に行かないと……。寝返りを打って数十秒ぼんやりしたところで、ベッドから体を起こす。カーテンの向こう、隙間から見える空はよく晴れていて、鳥のさえずる声がやけに清々しい。顔を洗うためにのろのろと部屋を出て、無意識に右に曲がり……私は行き止まりの壁にぶつかりそうになってはたと我に返った。洗面所が、なくなってる。

「……じゃなくて、」

寝起きの突っ込みは声がやや掠れた。完全に寝ぼけていたようだ。古びた白っぽい壁、ワックスのかけられたビニール系のツヤツヤした床……明らかに私の家ではない。
こそこそと部屋に戻ると、広々とした生活感のない個室の奥にぽつんとしたベッド。起き上がった時に捲りあげた布団がそのままになっている。行こうとしていた洗面所は部屋の中にあって、入口すぐのところだ。

「…………仕事、休みだった」

そもそも私、入院してた。鈍い動きで洗面所に入って、ピカピカの鏡に映る眠そうな女を見つめる。起き抜けのなんとも頼りない間抜けな喋り声だった。
シン、とした空間で蛇口を捻る。飛び出るような勢いで流水が渦を巻いた。
手にすくった冷たい水を顔に押し付ける。ようやく目が冴えてきて、引き締まった肌を掌で軽く叩き、はぁぁと深い息をひとつ。

あのあと、私は意識を失って病院に担ぎ込まれていた。
目を覚ましたのは事件の翌朝。かじりつくように真っ先に見たニュース番組には、見覚えのある建物が黒焦げの状態になって映し出されていた。研究所の火災は、不法侵入者による煙草の火の不始末が原因だったそうだ。流れてくるニュースは火災のことばかりで、市ヶ谷で爆発物騒ぎがあったとか、テロがあったとかいう話題はひとつもなかった。

そして、今日は事件の日から数えて2日目である。
今いるのは一般病院の個室だが、体調が万全でなかったためか、現在までに取り調べのようなものは受けていない。てっきり関係各所の人達が大挙してやってくると踏んでいたのに……。誰かが側にいてくれるわけでもなく、今の私は完全に放置されている状態だ。
連絡をしようにもスマホは画面が大胆に割れて使えないし、看護師さんに聞いてももう少しで退院できますよという返事しかもらえない。どこかに放り出していた鞄は誰かが回収してくれたようで、そこにお金が入っていたのでまだ良かったけれど……。ちなみにスマホのアラーム機能だけは平日の決まった時間に設定していたため、唯一使える。というか、解除できなくて叩き起こされる。
少し焦げた鞄の持ち手の部分を眺めて、よく死ななかったなと思う。電話をしている最中はまだ近くにジンとベルモットがいたはずだし、外で様子を窺っていたと思われる警察がすぐ火災現場に突入してくるとは思えない。私を助けてくれたのは一体誰だったんだろう。




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