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23-11



夕暮れから夜の間は短い。研究所に戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。外観は出て行った時と変わらないが、ボヤ騒ぎでもあったように白いもやが周辺を取り囲んでいる。
施錠されていない入口から中に入り、鼻の奥がツンとする匂いに立ち止まる。建物の中から発生した煙で間違いないようだ。 1階は静かなもので、誰の気配もない。量は微かだが上の階から流れてきているように思える。古びた薄明かりと煙でぼやけ、先の見えない階段を見上げた。

4階から5階は吹き抜けになっている。誰かを呼び出すなら、上から容易に様子を窺えるような場所に呼ぶだろう。元から廊下や階段、吹き抜け部の広場には照明があり、人が動けば一目瞭然だ。
そっと足を踏み出して、階段を静かに上りながら自分の手首を見つめる。……手錠は自分の鞄を分解して、取り出したワイヤーを使用してどうにかなった。それよりも反対の手で服をしっかりと掴まれていたので、そっちを外すのに倍以上の時間がかかったことは記しておかなければならない。

5階まで上がってきたが誰にも会わなかった。吹き抜けの部分から煙が昇ってくるので、発生場所は4階のどこかだ。発煙手榴弾を窓から投げ込んだか……ジンは堂々と乗り込んできそうという勝手なイメージがあったので違和感がある。そうして下を覗いていると、ある音に気付いた。

「…………?」

……どこかから微かに聞こえる。物音ではなく、大型機械の電源のような体に響く低音だ。怪しげな装置でも運んできたのかと思って音のする方へ近付くと、他の部屋よりもだいぶ大きめの部屋にたどり着いた。音は電源室からか……。使われなくなって久しいのに動いている機械があるのだろうか。人の気配もないので、中にお邪魔してみる。そこは実験室のような空間だった。

「培養装置……?」

四角くて小窓付きの、一見するとレストランの厨房に置かれていそうな巨大な長方形の装置。中が見えるが、ケースの中は何も入っていない。単に電源が生きているだけで稼働はしていないようだ。作業台には置きっぱなしのシャーレ。ここで細胞の培養を行っていたのだろうか。人だけが消えたラボ、迫りくる悪の組織の手先……これフラグでは?
考えないようにして廊下側に出ると、もう一度吹き抜け部分から階下を見下ろす。さっきまでは誰もいなかったのに、今度はすぐに人影を見つけた。

「あれは……」

後ろを気にしながら廊下を走っているのは、大場さんだった。それを追うのは知らない男だ。逃げている方が細身だから余計に感じるのか、上から見ても分かるほどの大柄な体躯。肩には黒くて細長いケースのようなものを担いでいる。ライフルだったら厄介なことになりそうだが、あのなりでスナイパーというのもあまり想像できない。

「参ったな、急に窓割って攻撃してくるんだから……」
「ちょっと、どこにいたんですか?」

いないと思っていた男が背後から急に現れた。返事を寄越すこともなく、私の横に並んで追手の姿に首を傾げている。

「……あれ?あいつ太った?」
「そんなわけないでしょ?まさか本人、来ないなんてことないでしょうね」
「踏んでる踏んでる」

痛い、と言われて踏んでいた足を退ける。予期せぬ状況になって怒りが漏れ出てしまった。

「身一つで来るって言いましたよね?変なの連れてきてるじゃないですか……」
「いやーびっくりだね。よほど情報を盗んだ八坂を恨んでるんだな」
「人ごとみたいに言わないでください!大場さんを助けないと」

意訳、早く助けなさいよ。というつもりだったのだが、何故か有川は左手を差し出してきた。見れば黒い何かが握られている。……拳銃だ。

「撃てる?」
「あの……一般人は巻き込まないんじゃなかったんですか?」
「俺、今日でお巡りさんやめるから大丈夫」

私に無理矢理銃を手渡し、男はジンを探しに行くという。その顔と自分の手元を交互に見つめ、私は呆れた。
この銃はJericho……改良前の古いタイプのものだ。サイレンサー付き。この華奢な手で握り締めたことはないのに、昔慣れ親しんだ型だからか手に馴染む。たとえ現世で悪の道に足を踏み入れたとしても、手にすることはおそらくなかったはずのもの。

「か弱い女に握らせるようなものじゃないですよ」
「……俺のこと撃たないでね」

苦笑して背を向けた男をじっと見つめて溜息を吐く。やるしかないみたいだ。
色々と巻き込まれすぎているが、もしこの男に出会わなかったらどうなっていたんだろう……案外、そっちの方が状況が厳しくなっていたかもしれない。
有川が思い出したようにこちらに振り向いた。

「君、最後まで俺の名前聞かなかったよね」
「まさか中身が別人とは思わなかったですし……途中まで」
「俺達にとっては名前なんて、本当は何の意味もないって気付いてるんだ」
「…………」
「色々なものを捨てすぎて、捨てたものが何だったのか……何を捨てたらダメなのか分からなくなった」

名前も、顔すら変えてしまったこの男が自身を証明することはできない。諜報員は心を殺すことを求められるが、心がなければとっくに別人になっていただろう。存在しないとされた機関で、大きな金を手にするわけでもなく、名誉が得られるわけでもない。たとえ死んでも、何も残らない。あえていうなら、それを選んだという事実だけ。

「本当の俺はたぶん、どこかに転がってるんだよ。掻き集めた偽物のパーツでこれが自分だって笑ってたけど……それを探しに行くのも悪くないかなって君に会って思ったんだ」
「なんで、私?」
「さあ、昔を思い出したのかも」

無知で非力で食うにも困っていた子供。救い出してくれた彼女の役に立つのだと、それだけをずっとずっと夢見ていた。
忘れたつもりはなかった。でも立ち止まってみたら色々なものがなくなっていることに気付いて……それは誰にでもあることで特別なことじゃない。けど、そこに気付くかどうかは自身の行く末を変える。こともある。
男は目に焼きつけるように私を正面から見て……

「ねえ、これ死亡フラグじゃない?」

神妙な顔でそう尋ねてきたのだった。




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