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23-9



「どうしてこんな、急に……?今までは何も聞いてこなかったのに」
「……この間は泣かせてしまったので……これは宣戦布告です」
「へ?」
「あなたの考えている通りですよ……僕はあなたが離れていくのが恐ろしかった」

間抜けに口を半分開いた私に、安室さんは目をすうっと細める。暗くなり始めていて見えにくいが、よく見るとその褐色の額に汗が滲んでいる。私でも汗を掻いていないのに、安室さんがたったあれだけの運動量でそうなるはずがない。どうしたのかと尋ねようとして、先に彼の薄い唇が動いた。

「今日までに色々な方法を考えましたが、あなたを奪う方法を他に思いつきませんでした」
「奪……いや何言ってるんですか。私と刑事さんはそういう妙な関係じゃ、」
「…………物理的に触れられるような相手なら僕はこんなに苦労しませんよ……」

違うと言われて私は押し黙る。流れで有川との関係を誤解していると一瞬思ったけれど、そんな単純な話じゃなかった。
物理的に触れられない……知らない人間が聞いたらホラーだが、その通り、その男には実体がない。
初めて肌を重ねる直前に、あなたは僕を見ているようで見ていない、誰を見ているのか教えろと圧を掛けられて、結局私は喋ることができなかった。あの時からずっと、この人は答えを探していたのだろう。

別の誰かと安室さんを重ねている。それに気付くことはできても、それが私の中にいる存在だと知ることなんて、常識的にはあり得ない。だって、証拠も何もない。でも、この人はたどり着いてしまった。正確には、私がここにやって来たことで確信してしまった。存在しないから、私がどんなに怪しい行動をしようが物証は一切残らない。その残らないということが逆に彼をここまで導いたのだ。

メールをわざわざヘブライ語で書いたのは、私がヘブライ語を理解しているという自身の仮説が正しいことを確かめるためであり、私ではない私に宛てたものだという意思表示でもある。無理に聞き出せば離れていくかもしれない。ならば他の方法は……と考え抜いて。ご丁寧に暗号文に混ぜて書かれた、彼女を奪う、という物騒な一文は、私の中の男に対する宣戦布告だったと、そういうことだ。

「…………」

……負けた。そんな単純な言葉が思い浮かんだ。宣戦布告されて30秒で負けてどうする……別に安室さんは本当に勝ち負けを決めようなんて思っていないだろうが。思えばこれまで、たくさん敗北してきたような気がするので今更感がすごいけど……。
ふぅ、と吐き出された吐息が肌をくすぐる。

「…………で?」

何か言えとばかりにじろりと睨まれる。ぐっと寄せられた眉と、半眼。至近距離、超怖い。毎度毎度緊急事態に合わせて別の危機がやってくるの、いい加減にやめてほしい。私は控え目に口を開いた。

「……人相、悪いですよ……いつにも増して」
「どういう意味ですか……というか、僕の推理を聞いた第一声がそれなのか……」

状況も忘れてカチコチに固まり、何とか言葉を発した私をじっと見下ろして、目の前の男が再び溜息を吐く。何かを堪えているような感じだ。変装のマスクが暑かったのかとも思ったが、どうやら違う。

「まさか、怪我……?」
「……いえ、ご心配なく。薬のせいですから」
「く、薬?何の?」
「…………」

さっきまでふらつきながらも走っていたことを考えれば、即効性は薄い。健康な成人男性の足元が覚束なくなるような薬……顔色が分かりにくいが、紅潮はない。発汗が微かに。体温は元から高いからあれだけど、熱があるというほどではない……。睡眠薬か。答えない安室さんをじろじろと観察して、いつもとは系統の違うタイトめのスーツに目を留める。おそらく地味な顔に合わせて野暮ったくならないようにしていたんだろう。

「今更ですけど、どうして変装してるんですか?」
「僕は今日、防衛省情報本部の臨時職員ですので……それ相応の格好をしているだけです」
「え」

思わず固まってしまった。DIHの、職員。いや、確かに追いかけられていた時はそれ以外にないと思っていたが、中身が安室さんだとはこれっぽっちも考えていなかったわけで……色々とびっくりしすぎて忘れてたけど、一体どうしてここに安室さんが?

「な、なんで?」
「ここに呼び出されたもので……」

あ、まずい。これ以上聞いちゃいけない気がする。だが、無情にも安室さんは勝手に続きを喋り出した。いつも重要なことは何ひとつ教えてくれないくせに、やっぱりこういう時に限って喋り出した。

「彼らが組織に対して内密にスパイを送り込んでいたことは知っていますね?僕はそれを市ヶ谷まで問い詰めに行ったんです」
「え……直接?防衛省に?」
「そうしたら彼らは幽霊が出たとパニックに陥っていて……スパイの弁明もそこそこに僕に泣きついてきたんですよ……」

独自に黒の組織にスパイを送り込んでいた情報本部。だが、そのスパイの男は知らないうちにジンに殺されていた。半年前にその報告を大場から受けた本部では大騒ぎになったが、死体が見つかったわけでもなく、対処しようがなかったという。しかも、数年かけて組織の足場を崩そうという算段で大場からスパイの男に送らせていた情報は限りなく本物に近い危険な代物……それが正体不明の八坂という男に奪われてしまっており、一度は接触を果たすも、すぐにこの八坂も組織に殺されてしまう。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。

そして何の進展もないまま半年が経過し、八坂の遺体が倉庫で発見された。スパイ行為自体を警察庁に報告していなかった本部がそれ以上動けるはずもない。命令を無視した大場は単独で調査に向かい、専務からの連絡でUSBを持ち去った金髪の男が組織の人間だったと知り……やがて本部の上層部と対立して辞職した。

本部としては、ごく数名の事情を知る人間がこのまま口を噤んでいれば一応は収束する……そんな矢先。随分前に殺されているはずのスパイを名乗る人物から連絡があったのだ。大場の仕業ではと本部内は騒ついたが、防衛省を退職後、組織の手によって行方不明になったという一報が入っており、その場にいた関係者は蒼白となる。
そこへ何ともバッチリなタイミングで現れたのが警察庁警備局警備企画課、通称ゼロに属する男だった……。

「公安、いえ、警察組織に対する裏切り行為にも等しいわけですから、本来は上に指示を仰ぐべき案件ですが……目を瞑るかわりに今日一日雇ってもらったというわけです」
「……本当に泣きつかれたんですか?」
「…………」

既に警察庁が諜報活動を行なっている組織だ。自分達もとなれば断りを入れることは必要だろう。そうしなければ今回のような無駄な争いや悲劇が生まれる。このような事態を引き起こした彼らを警察庁が糾弾するのは当然だ。両者の間に亀裂が入るどころか、既に潜入している降谷さんの命をも脅かす可能性があるのだから。しかし、警備局を揺るがすような出来事なのに、それを潜入している本人が「どういうことだ」と乗り込んでいくのはちょっと……相手は本部の幹部クラスだろう。いくらなんでも武闘派すぎる。

幹部といえど、本体にチクられたら失脚は免れない。そうなれば警察庁の一警察官と、権力を持つであろう本部の幹部であっても力関係は明白だ。あちらは乗り込んできた人物がどんなに下っ端であろうと逆らえない。亡霊に呼び出される職員の役目を俺にやらせろと言われたら断れない……半ば脅迫に近かったわけだ。つまり泣きつかれたのではなく、降谷さんが泣かせたのだ。



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