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23-8



一体何者なんだ。呼吸が弾む。落ち着けと言い聞かせても、胸中に吹き荒れる混乱は収まりそうもなかった。見知らぬ男に捕まりそうだから、じゃない。これは以前にも感じたことのある恐怖感だ。追い詰められることなんてほとんどなかった私が、いつだったか、あれは……駐車場で。この感覚を私は知っているんだ。

無意識に走る速度が落ちた。辛うじてのろのろと足を動かしながら、後ろを振り返る。男はもう目の前に迫ってきていた。
その腕が私の右肩を掴むのと同時に、私もまた体勢を変えて男に手を伸ばす。左手でシャツの胸もとをぎゅっと握り込んだ。
よく見たら色白というよりも蒼白な顔だ。特徴のない眉と鼻。どこかで見た気はするけれど、たぶんどこにもいない顔。力強い手指が肩に食い込む。目が合って、一瞬だけ時間が止まったような気がした。
先に口を開いたのは私。

「……ひどい顔。人でも殺したような顔ですね」
「ええ」

相手の唇から出た短い返事はくぐもっていて聞き取りにくい。その白い頬に触れて、どこか不思議な感触を指先でなぞる。

「…………毎晩、殺していますよ」

今度ははっきりと声が聞こえた。鼓膜を震わせる低い響きは穏やかなトーンだったけれど、迫るものを感じる。こんなにも温度のない表情なのに、掴まれた肩が熱い。
男の頬を強めに撫でた。そうすると皮膚が撓むような奇妙な感触がする。
どうやって変装しているのかなぁと、沖矢さんを見て思っていたけれど……今こうして疑問が解決するとは思わなかった。そのまま皮膚を指に引っ掛けて、手首を捻るように力任せに手前に引く。びりり、案外簡単に破けたそれは繋ぎ目と思しき部分が裂かれ、細かな破片がパラパラと散らばった。その面の下に現れたのは、思った通りの男。

「どうして……安室さんが?」

そろそろジンが来る。ここにいたら大変なことになるのに。けどそれは口では言えなくて、肩に体重を掛けられて壁際に追い込まれる。青い瞳と見つめ合って息を飲んだ。何度も対峙して、こうして見つめ合ってきた。でも、今までのどの表情とも違う……。私の目に映る男の顔は一体誰なのかと、これまで何度も考えさせられたけれど……。
ぱさり、彼のかぶっていた帽子が落ちる。

「僕がここにいる理由を知りたいですか」

さっきはどうしてと聞いてしまったが、とても単純なことだ。
有川が部屋を出て少ししか時間が経っていないのに、私はあのメールを有川が送信したと疑いもしなかった。だって、言語が日本語じゃなかったから。もっとよく考えて行動すれば良かった……と、後からならいくらでも言える。慎重に悩んだって、有川以外が送ってきたなんて考えもしなかったに違いない。
彼が上着のポケットからスマホを取り出す。それはいつも使用している彼のもの。くるりと見せられた画面には確かにあの言語の羅列がある。……そう、にわかには信じ難い。メールで私を呼び出したのは有川ではなく安室さんだった。

「…………」

私は試されたのだ。正確には私ではなくて、私の中のもうひとりの人間が。部外者には退場してもらうと、あの日そう言った降谷さんに対して私は「無理」だと答えた。なぜならその男は内側にいるから。表に出られるはずがない、一生誰とも向き合うことのないもうひとりの自分。それが今、彼と視線を合わせている。お前は誰だと正面から問われて答えたわけではない、引きずり出されたのだ。……別に私は二重人格じゃない。それでも今、この不思議な男と向き合っているのは間違いなく過去の自分だと思えた。
私が大人しくしているのを確認するように見つめてから、男が口を開く。

「あの倉庫で、誰ひとりとして八坂が残したメッセージを見つけられなかった……その理由をずっと考えていました」
「…………」
「あなたは嶋崎メイの協力を得て暗号を発見したことは明かしても、その正確な場所やどのように書き記されていたかは僕に言いませんでした。見える場所にはあったが、誰もそれを言葉だとは認識しなかった……そうでしょう?メッセージが八坂の得意とする言語であったとすれば見えてくることがある」
「…………」
「次に、同時期にあなたに接触してきた有川憂晴警部補についてです。ナナシさんはあの男に騙されて公園に呼び出されていました。下手をすれば命の危険もあったのに、その後も男に接触している」
「……だからそれは、」
「あの名前を男に伝えてしまったから、そう言いましたね。けど、それだけじゃない。僕の名前と、あの男があなたに固執していることは関係ないでしょう。ふたりの間には断ち切れない何かがある……正確には、有川憂晴の顔を持つ正体不明の男と」
「…………」
「TRT……ご存知ですか?」
「…………」
「Terrorism Response Team……日本人が国際テロに巻き込まれた場合に出動する警察庁の緊急対策班です。数年前、邦人救出の任務で彼らが中東に派遣されていた際、軍事施設及び周辺一帯が爆破される事件がありました。実行犯は世界中で暗躍する通称黒の組織……お察しの通り僕が潜り込んでいる犯罪組織です。僕は組織の動向全てを把握しているわけではありませんでしたが、爆破を受けて当時の長官を通し情報提供の要請がありました」
「…………」
「日本にいながら混乱する現地の状況を知ることは困難を極めました。まあ、だからこそ正規ルートを使用しない僕に話が来たんですが……その時捜査員と協力して掻き集めた情報の中に、組織幹部が人に会うため自らナブルスへ赴いたという目撃情報があったんです」
「…………」
「テロとは無関係だったので捨て置きましたが、あれが僕の思う通りの人物だったのなら……あの時に人を使ってでも葬っておくべきだったと思っています」
「さらっと恐ろしいことを言いますね……」
「……結局、現地にいたTRTのメンバーは巻き込まれて死亡していました。これが八坂の上司だった男です」

TRTは警察庁警備局国際テロリズム対策課……通称国テロと呼ばれる部署のチームだ。八坂の古巣は国テロだったということか。国テロが八坂の件を調べにきたと有川が言っていたけど……そういう事情もあったのかもしれない。
国際テロに巻き込まれた邦人を救出するため、チームが現地で活動していたところに組織による爆破事件が起きてしまった。上からの命令により子細を把握するよう要請された降谷さんは、最低限のサポートを付けて日本から現地の情報を探ることになり……。対策班は現地の言語を習得する必要があるため、課内でも喋れる者は複数いたはずだが、八坂のように自在に暗号を組み立てられるレベルとなるとそうそういなかっただろう。よって協力した捜査員とは八坂のことだと思われる。
長官からの命というイレギュラー。八坂が本来なら姿を見せない降谷という人物を知るきっかけもそこだったということだ。

「これまでの考察を踏まえて、有川憂晴の正体は予測がつきます。問題はあなたです」
「…………」
「……というより、あなたが僕と重ねて見ていた誰か……思えばずっとその影はありました。そして一連の事件にも関わっているはずなのに、どこにも痕跡がない……それが最後まで分かりませんでした。だから今日、試したんです」

それは事前に組み立ててきたのだと思わせる、流暢な推理だった。そして、今まで「なぜ聞いてこないのか」と私がずっと疑問に思っていた部分でもある。いや、まさかここまで完璧な状態にしてぶつけられるとは思わなかったのだが……。しかも、急にこんなところに現れて一体どういうつもりなのか……顔まで変えることにどのような意図があるのだろう。



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