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23-1



「どうして?」

そう問いかけてきた彼女の顔は、少し見ないあいだに随分と穏やかになったように思えた。緊張感のある日々から解放され、あの邸宅の静かな空気にしばらく身を置いたからだろうか。ぴんと張り詰めていた糸が緩み、これが本来の彼女の表情なんだなとすんなり納得できる。初めてポアロで会話をした時とは真逆の印象で、とても物静かな人に見えた。

「どうしてって、沖矢さんの近くにいた方が良かったのに……」
「確かに沖矢さんは親切な方ですけど、いつまでもお世話になっているわけには……それにホテルなら警察の方が警護してくれて安心ですし」

仕事帰りに待ち合わせた駅前のカフェで私と類さんは顔を合わせていた。ラインで連絡は取り合っていたけれど、顔を見るのは久しぶりだ。
……何か企んでいますね。そう尋ねてきた彼の言葉を否定せず、思わせぶりな態度を取った私はさぞ警戒されているだろう。そう思ったのだが、私のホテル生活は一本の電話であっさりと終わりを告げることになった。引き替えに自分がホテルに行くと、類さんが工藤邸にやってきた公安の刑事に申し出たためだ。当然、優先して保護すべき対象である彼女の提案はのまれることになり、私はその日のうちに荷物を纏めて家に戻ることを許されたのだった。

「勝手なことをして怒ってますか?ナナシさん」
「怒るなんてとんでもないです。ホテル生活は窮屈だったので助かりました。でも、相談してくれてもよかったのに」
「そうしたらナナシさん、反対したでしょう?」
「……それはまあ……」

頷きながら溜息を吐く。彼女が警察の方が安全だと考えるのは当たり前だ。沖矢さんとはだいぶ打ち解けているとはいえ、彼がFBIということは知らないし、家に完全にふたりきりでなくともそれが普通の女の心情だろう。私だって工藤邸で暮らせと言われたら逃げ出す画策くらいはすると思う。わざわざ私を家に戻す交渉までしてくれたのだから、これ以上は何も言えない。

「……彼について話を聞かせてほしいって、風見さんという刑事さんに言われて。もしかしたらあの人のこと、何か分かるかも」
「それって……」
「私だって、彼のことをまったく何も知らなかったわけじゃないんです。全部話してもらえるとも思っていなかったし……聞いても困らせるだけだったでしょう。でも、もっと話をすればよかった。……後からならいくらでも言えるんですけどね」
「いつから気付いてたんですか?……彼がその、」
「警察官だって?」
「はい……」
「……初めて会ったのが篭城事件だったっていう話、しましたよね?その時からおかしいとは思ってたんです。妙に冷静というか……彼がどこかに電話をかけたあと、すぐに機動隊みたいな変わった格好をした人達が来たし……それに運送業っていうわりには、そんなに力持ちじゃなかったから」
「そうなんだ……」
「彼が自殺なんかするはずない。その一心で有川に言われるまま行動してしまったけど……彼のことを知らなかったのは私なのに、勝手に裏切られたような気分になっていたんだと思う」

どこかで分かっていた。自殺……そうせざるを得ない状況があの人には起こり得るかもしれないってこと。類さんは感情的になることもなくそう言った。結局、彼を手に掛けたのが有川本人だったのか、それは不明のままだ。あの男はうっかり殺してしまったと言っていたけれど、自分が実行したとは言わなかった。疲れたから眠ると言っていた八坂が、秘密を守るために自ら命を絶ったという可能性もゼロではないのだ。この先、彼女がそれを知らされることはおそらく無い。けれど万が一、たどり着いた先にどんな事実があろうとも、彼女は怯まないのだろう。

「好きだから、嫌われたくないからって向き合わないで……今更あの人が隠していた事を暴こうとしてるなんて。自分勝手な女です」
「冷静に考えたら些細なことで相手が離れて行くわけがないのに……そんなことも分からなくなってしまうんですよね」
「……ナナシさんとこんな話をするなんて不思議。水族館に行った時は私の言葉を受け流すだけだったのに。何かあったんですね?」
「あっ……いえ……相手の秘密を暴こうとしてるとかじゃないんですけど、私には人に言えない秘密があって……そのせいで……というより、それのせいにして一歩距離を置いていたはずなのに、うまくできてなくって……今ちょっと、取り返しが付かなくなってるというか……そういう感じなんです」
「ナナシさん、そういうことで困りそうには見えないのに。弱点があったんですねぇ」
「…………」

沈黙してお皿の上のケーキに視線を落とした私に、類さんはふふっと笑った。決して初めての恋じゃない、というのは誰に対しての言い訳なのか分からないけれど、また微笑ましく見られそうで何も言わなかった。

「ナナシさん、くれぐれも無理しないでくださいね」
「大丈夫。類さんのおかげで家に帰れるようになったし、危ない人とも関わらないから」

せめて心配させないように、顔を上げて胸を張ってみせる。彼女はそんな私をじっと見て、それから少し笑った。

「そういうところは似てないのね」
「え?」
「あの人、嘘はすごく下手だったから」
「…………」

嘘が上手いと言われてしまった。でも、バレてたら意味がない。
まだ私と彼を重ねているのだろうか。
そう言われてしまうと何も言い返せなくて、無言でケーキにフォークを入れる。

チラと窺い見た彼女の、頬に落ちる長い睫の影に陰鬱さはかけらもなかった。




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