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23-2




おい、と、呼び掛けられ、うっすらと聞き覚えのある声に現実に引き戻される。鳶色の瞳と目が合って、我に返った。
周囲はお洒落な木目の壁から打ちっぱなしのコンクリートに変わっている。広くもない空間にぽつんとひとつだけ取り付けられた黄色っぽい蛍光灯は大して照明の役割を果たしていない。部屋にある小さな窓から辛うじて外の明かりが差し込んでいた。どこかどんよりとした空気だ。目の前のソファに座っている男が訝しげにこちらを見つめている。

「あ……すみません、ぼんやりしてました」
「君、卒業生じゃなかったのか?」
「いいえ、卒業生というのは本当です」

ホテル生活から自宅に戻って4日ばかり経った平日の朝。これから仕事へ行こうというところで私は有川に呼び出された。目の前にいるのは有川ではなく、ひょろりとした30代半ばくらいの男だ。短い茶髪で、座っていても背が高いのがわかる。
名前は大場龍太。世良さんの手伝いで大学に行った時、騒ぎのさなか拳銃を持ち去った例の人物だった。DIH……防衛省の特別機関の職員だ。本人いわく元、らしいが。安室透(仮)と対峙して私を人質に取られて指示に従い、その後姿を消したはずだった。ではなぜ目の前にいるのかというと、車で移送されている途中で何とか脱出できたのだという。

「よく逃げ出せましたね?あんな……危なそうな感じの人から」
「今ようやく実感してるところだよ……こっちは大学に身を隠す前に身辺整理までしてきたっていうのに」

危なそうな感じの人……もとい組織のお兄さんに追われて大学に逃げ込んでいたという大場だが、そこで口にしていた「お前はあの時の」という言葉の通り、追手の顔をはっきりと認識したのはそれが初めてだった。例の犯罪組織に偽物の情報を掴ませようとしていたのは間違いない。だが、はじめ本部からはそこまで危険な組織だとは聞かされていなかったそうだ。仲間が音もなく亡き者にされ、ようやく自分も命の危機にさらされていることに気付いた。

「君が人質にされて、あの男の言う通りに裏門から出たところに黒塗りの車が止まっていたんだ」

精神的に追い詰められていたこともあって、民間人の人質を前にあっさりと屈してしまった大場は大人しく拘束された。車に乗っていたのは組織の人間ではなく公安の刑事達のはずだが、それを彼が知る由もない。
すぐに警察組織に連れて行けば金髪の男が警察関係者だと知られてしまうため、専務同様に泳がせる手筈だったのだろう。大場に逃げられ、彼らは今頃てんやわんやになっているに違いない。

「移送中に車から脱出するなんて、映画みたいですね」
「ああ……ロープで縛られてたんだが、甘かったのか緩んでてな……車から飛び出したところでその男に助けられたんだ」

「君も無事で良かった」と言いながら、大場は部屋の隅に目を向けた。
灰色の壁に寄りかかって冊子に目を通していたもうひとりがこちらに近寄ってくる。いつも通りの黒っぽい格好だ。

「この研究所、今は使われてないみたいだな。パンフレットが昔の日付になってる」
「前に色々あって当時のまま残ってるんだ」

5階建ての研究所。母校の大学が所有する施設だ。構内の高い建物から見える距離なのだが、専攻がまったく違うので存在も知らなかった。私がいかに学生時代をのほほんと生きていたのかがよく分かる。ライフラインは生きているようだから、最低限の管理のために誰かが出入りしているのだろう。大場は車から脱出した後に有川の助けで逃亡し、ここにたどり着いたというわけだ。

「曰く付きだから、他の人間は滅多に立ち入らないよ」

例のドミトリー管理人さんの弟が自殺した原因となった、ある宗教の集団失踪事件……当時の大学教授が裏で手引きしており、ここは支部のような存在だったという。大場はその事件に個人的に関わったが、管理人さんの弟を救えなかったという罪悪感をずっと抱いていた。大学を身を潜める場所に選んだのも、自らの危機を前に彼女のことが気がかりだったからなのかもしれない。

「でも、本物の銃はやりすぎだったんじゃないですか?」
「モデルガンを渡すつもりだったんだが……彼女が先走って俺の上着から本物の銃を持って行ってしまったんだ。見つけ出した疑惑の人間を問い詰めて、彼女の弟のことを吐かせるだけのはずだった……追い詰められた人間は何を仕出かすか分からないな。人のことは言えないが……」
「そうだったんですね……」

大規模な宗教がらみの事件ということだから、当時事件を担当していたのは警視庁公安部。安室さんが直接関わっていたかは分からないけれど、あの時この人を「正義の味方気取り」と言っていたのはそういう裏があったのか。たぶん大場さんの方は、悪の組織のお兄さんに単に鼻で笑われたくらいに思っただろう……お兄さん、そうやって人を鼻で笑ってても違和感ないし。

大場はジャーナリストとして行動するのが常だったという。安室さんが大場さんを知ったきっかけは、その宗教絡みの事件を除けば、公安が泳がせている間に専務が送信したというメール。ただし大場がDIHの人間だということにすぐにはたどり着けなかったはずで、それを繋いだのはタイミング的に見て八坂のUSBの情報だっただろうか。
普段の大場が記者として行動していたなら、専務はその協力者のような存在だったのかもしれない。まあ、悪どいことを企んでいた専務のことだから、もっと別の繋がりかもしれないが……危機に陥った時に連絡を取る相手だから、それなりに関係は深かったのだろう。





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