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22-5



出来上がったいい大人達が沖矢さんに処理されている。バーベキューを始めてから2時間半、ようやく会はお開きになりそうな雰囲気だった。煙の名残りか、辺りにはうっすらと白いもやが立ち込め、水際に夜霧がおりたように街並みを霞ませている。近隣には駅も飲み屋もなく、寂しく佇む街灯が誰もいない通りをぽつんと照らしていた。

「コナン君、蘭さんが呼んでたよ」
「分かった、ありがとう安室さん」

落ち着いた低い男の声はよく通る。耳に入って、折り畳みのテーブルを拭いていた手は無意識に止まっていた。向かい側で一緒に作業していたコナン君が顔を上げ、タタっと蘭さんのところへ駆けていく。彼女は水場から引っ張ってきたホースで鉄板を洗おうとしているようだ。直後、視界にぬっと入り込んでくる腕。その手がアルミで補強されたテーブルの縁を持ち上げたので、私は布巾を退けて彼がそれを畳むのを眺めた。

「ゴミを捨てに行きたいんですが……すみませんが手伝っていただけますか?」
「はい」

纏めたゴミを捨てに行くようだ。客が地元住民をもてなすスタイル。手伝ってと言いつつ、それって別途袋に入れる必要あった?という小さなゴミ袋を手渡されて思わずじっと見てしまった。安室さんの顔は無表情に近い。沖矢さんと一緒に来たから怒っているのかもしれないと思いつつ、歩き出した彼の後ろに続く。歩道を歩きながら、2歩先を行く背中に話しかけた。

「たまには色々な人と話すのも楽しいですね。サミットがあそこでやるのも初めて知りました」
「会場の情報はまだ公表されていませんからね。来年にはもっと人が増えるでしょう……ところで」
「はい?」
「ここへ来ることを報告していませんね?」
「あ……すみません……急だったので忘れてて」
「急に誘いを受けてあの男の車に乗ったと」
「いや、誘ってきたのはコナン君で……」

ごめん、コナン君。でも事実だし。その辺の事情は蘭さんから聞いて知っているはずなのに、どうしても自分で確認しなければ気が済まないみたいだ。いちいち目くじらを立ててくる安室さんに、私は思わず吹き出してしまう。安室さんが振り向いて微妙な顔をした。

「なぜ笑ってるんですか?」
「いえ……安室さんだなって……」
「それはどういう……やっぱり言わなくていいです」
安室さんは再び前を向いた。歩幅を緩めてくれたけど、なんとなく後ろ姿を眺めていたくて少し伸びた金色の髪が夜風になびくのを見つめる。がっしりと据わった首に繋がる広い肩、背中への筋肉や男らしく骨張った肩甲骨の線が白いシャツの皺をつくり上げて、歩くたびに街灯の下で陰影を変えた。……どうしてこの人だったんだろう。私の行きつけのお店に急に現れたのは。もしもこの人が何でもない普通の人だったら私は、どうしたのだろう。そんなことは何度考えたって分からない。もしかしたらそれでも惹かれたかもしれない。

頑なに横に並ばない私を不審に思ったのか、安室さんがまた振り向いた。青い瞳が一瞬だけ私を見て、目が合うと、すぐに前に向き直る。何事かを低い声が呟いたが聞き取れなかった。

「………………」

ここへ来る途中の車の中で、沖矢さんからこの人が組織では孤立しているということを聞いた。元から探り屋という肩書きで単独行動が多く、それをよく思わないジンには疎まれていたらしい。そこへ観覧車の騒動があり、スパイ疑惑を掛けられた。赤井さんの手助けで一応は難を逃れたが、疑いの目は向いている、と。
息苦しくなって空を仰ぐ。堪らない不安感に襲われて胸が締め付けられた。どこかぼんやりとしていた組織と彼のイメージが鮮明に近付いたからか。そして思い知るのは、やっぱり私の世界の中心は変わってしまったんだということだった。……別に初めてひとを好きになったわけじゃない。今までそれが真ん中にくることはなかっただけで。もしかしたら普通の人には当たり前の感覚なのかもしれない。でも私はずっとそれを体験したことがなくて、いつこうなってしまったのかも思い出せなかった。

「ナナシさん」
「……はい」
「僕に隠れて何かしようとしていますね?」
「…………」

何を考えているんですか。硬い声で問われて押し黙る。私が大学構内で有川と会っていたことを突き止めているのかどうか……。前までの自分だったら適当なことを言って躱していただろう。
私は足を止める。

「私の行動を探るよりも、もっと手っ取り早い方法があるんじゃないですか?」
「…………」

安室さんは数歩進んで、足を止めた。これは組織のお兄さんにも聞いたことだ。結局答えははぐらかされてしまった。

秘密を暴かれて消えた人間は大勢いる……僕達はそれを痛感している。

車の中での沖矢さんの言葉が蘇ってくる。
……そんなことってあるだろうか。
カシャン、と空き缶の入った袋が地面に落下する音が少し先から聞こえた。でも私には見えない。じわり、じわりと滲んでくるあつくて苦しい感情に押し上げられて息を吐き出すので精一杯だった。空気が動いて、腕が伸びてきて、その大きな手が私の頬を包み込む。彼の温かい指が擦りあげるように冷えた肌をなぞっていった。新たに伝った私の涙が彼の指を濡らす。

「ナナシさん……」

どうして?
珍しくうろたえた声を出す安室さんを見上げる。溢れてくる涙で顔がぼやけてぜんぜん見えない。私が泣くなんてこれっぽっちも思ってなかったのだろう、どんな表情をしているか何となくは分かる。私だってここで泣くとは思わなかった。

「ちが……海……きれいだなって……思って……」
「え?」
「……バカ」
「…………」

突然罵られた安室さんは、それでも指で私の涙を拭ってくれた。本当にバカ。幻滅した。続けざまに唇からこぼれる言葉をじっと聞いてから、その腕で私を抱き締めてくる。空気を取り込んだからか、煙を浴びて煤けた匂いの他に海の香りがしたような気がした。手に持っていた袋がぽとりと落ちる。足元がおぼつかない。

完璧すぎるほど完璧な男だと思っていた。私が時にぞくりとしてしまうほどに、経験だけでは説明のつかない天与の資を備えて。
それが、たったひとりの女を暴けないなんて。しかも、考えもしなかった単純な理由で。
ただ一言、私に尋ねればいいだけなのに。強引な手段でも、法に背くことでも、いつもやっているみたいに。
お前は何者だ、と、ただ一言。べつに甘い言葉でもいい。ここまで親しくなって、体まで重ねた私に対して。

何も聞いてこないのは作戦で、利用するために泳がせているんだ。以前の私ならそう決めつけて確信したに違いない。けど、この人がそういう人じゃないってもう気付いている。何も持たない、誠実な人。そして臆病者だ。
真実を尋ねたら私が消えてしまうかもしれないと、この人は本気で恐れているのだ。
……ばかじゃないの。掠れた声で、みっともなく鼻声になって、シャツに顔を押し付ける。すみません、そんな低い声が頭上から降ってきたけれど、安室さんが本当に分かって謝っているのか怪しいと思った。はぁと深い溜息が肩口に埋まって、その部分が熱を持つ。

「ずっとこうしていてくれたら、僕はこれ以上愚かな部分をあなたに晒さずに済むんですが……」
「いや……」

だって、なんて。恋人を困らせる女みたいに駄々をこねる言葉。じわりと温かい体温に包み込まれたまま、めそめそと泣きながら思う。女を持て余す安室さんは初めて見たなぁと。言うつもりはなかったのに唇を開いてしまうのは結局、私はこの人のことを諦めきれないからなのかもしれない。愚かなのは私の方。浅ましい女だ。この決意を譲るつもりはない、でも分かってほしいなんて。

「私……あの男に降谷さんの名前を、言ってしまったから」

だから。
その言葉が何を意味するのか、彼は瞬時に悟ったのだろう。抱き締める腕にぎゅうっと力が込められて、呼吸が一瞬とまる。布越しに触れ合う温度が心地良くてまた涙が盛り上がってきた。今の私にはこの手を振り解く力強い腕がない。
吐息まじりの声が耳元に囁く。

「そんなこと、何だって言うんだ……」

そんなことなんかじゃない。本当の名前がどんなに重要か、降谷さんなら分かっているはずだ。過去の痕跡を完璧に消すことは難しい。潜入中の身で、スパイ疑惑がどうにか晴れた直後で、直ちに結びつきはしなくとも、それを握られたら今度こそどうなるか分からない。
ひとつはっきりしていることは、この場で譲歩することはお互いにできないということだった。決めてしまった私と、それを暴きたくても暴けない彼。

もう、と。低い声がぽつりと漏れる。

「……もう、どこへも行かないで」

搾り出すような声が直接体に響いてくる。もう、って、誰に言ってるの?あなたを散々置いていった人たち?私自身の過去の記憶と重なって、虚しくなった。あの頃は置いていかれることについてそんな風に感じていなかったのに、今は悲しかった。
どのような結末になるか、わからない。

自分だけで完結していた楽園。けれどずっと時間が止まっていることなどあり得ない。秒針は動いて、世界は変化し続ける。過去で俺が死んだように、今で私が生きているように。あなたがいなくなったら、この素晴らしい世界は壊れてしまうんだ。この世界に生きる、この国を必死で守ろうとするあなたが愛しい。
何も答えない私を、降谷さんはずっと抱き締めていた。金色の髪が額に触れる。常より早くてしめっぽい呼吸が肌を撫でていた。

いつか自身で感じたことが足音を立てて近付いてくるのを感じる。
それを行使した時、私もまた"俺"の偽物になる……そして、亡霊の行く先は。

ごめんね。
声には出さず、私は彼をぎゅうっと抱き締め返した。

最後に一粒の涙が落ちて、私の頬を伝った。



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