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06-1



暗闇と静寂に支配された空間に、音もなく蠢く気配。皮膚に刺さる形容しがたい痺れを感じるのは随分と久方ぶりだ。それと同時に湧き上がるのは高揚にも似た不思議な感覚で、それは恐怖を麻痺させるための防衛本能であると知っている。
こう暗くては素早く動き回ることはできない。辛うじて窓際から月明かりが差し込むが、闇に耐えきれずに近付けば飛んで火にいることになるだろう。そう、彼に今捕まるわけにはいかない。

カタン。
物音に眉をぴくりと跳ね上げる。
大丈夫、今のは外から聞こえた。風の悪戯さえ、緊張で研ぎ澄まされた聴覚が逃すまいとする。
私はゆっくりと深呼吸をした。

……どうしてこうなった?



それは今から3時間以上は前の、定時間際の社内でのことだった。
副社長への伝言を頼まれたがPHSが繋がらず、仕方なく居室を訪ねようと4階から5階への階段を上がっていた時。

「ああ……やっぱり勘付かれてたんだな……このままじゃあんたも俺も……どうする?」

階段の踊り場から男の声が聞こえた。焦った声音に、おや、と思い足をすぐ止めたのだが、運悪くそいつは話しながらこちらに歩いてきて、思いきり目が合ってしまった。あからさまにぎくりとして電話を切った男に、私は知らんぷりで再び歩き出し、横を通り過ぎようとする。しかし。

「今の、聞いてたか!?」
「いえ、聞いてませんけど」

すれ違いざまに腕を掴まれて足止めを食らってしまった。支給されたPHSを所持していることから社内の人間なのは分かるが、話しをしたこともない男である。聞かれたくない電話ならこんなところでするなよ、と言いたくなったが、ここを通るのは上層部の人間と連絡係の私、つまりごく一部の限られた人間だけだったことを思い出した。腕は強い力で握られており、振り払うことができない。一体何なのだろう、会社の機密情報でも喋っていたのだろうか。

「聞かれたからには、帰すわけにはいかない」

などと、現実世界で耳にすることはないがドラマやら映画やらではよく聞くセリフをのたまってきやがった。何言ってんだこいつ、という目で見ていると、凄みをきかせているつもりだったらしい男の表情はみるみるうちに絶望に変わる。そして涙を浮かべ始めた。情緒不安定か。

「もうお終いだ……だから俺は嫌だったんだよ……、そうだ!」

そうだ!の部分でいきなり元気になる。そこはかとなく嫌な予感しかしない。ここは頭突きでもかまして逃げ出した方が良いだろうか。しかし好きでもない男に腕をずっと掴まれているのは不快なものだなぁ、と緊迫感のないことを考える。今まで気付かなかった。私は結構、何でも耐えられるし平気だと思っていたのだが、こんなにくだらなくて些細なことにも揺さぶられるものなのだ。なぜこんなことに今更気付いたのか……と考えて、一瞬、別の男の顔がよぎる。同時に、何度か見つめた褐色の指も。いやちょっと待て。なぜ今ここで浮かんでくる。
無駄なことを考えている間に引っ張られて、踊り場から階段の上に連れて行かれそうになった。私は足を踏ん張って抵抗する。

「いや、私副社長に用があるので。上のフロアに着いた瞬間大声上げますよ?」
「っやめてくれ!……た、頼むよ……、このままじゃおれ、殺されちまうんだよ……!」
「えっ」

いきなりヘビーなことを言い出した。呼吸も浅く、取り乱している様子から嘘は言っていないと分かるが、物騒すぎる。ひょっとしてこいつ、例の件の関係者なのでは?
勘付かれた、と言っていたし、あのデータの件があって1週間。盗まれた方が気付いて何らかの行動を起こしてもおかしくはない。私は男を窺うようにそっと問い掛けた。

「えーっと、大変ですね。もしかしてさっきの電話って専務ですか?」
「声、聞こえたのか!?」
「いえ、なんとなくそうかなって……上の部屋に訪ねて行ったけどいなかったから電話をかけてたんですよね?今日は社長も副社長も社内にいらっしゃる日だし、いないのって専務だけなので……」
「…………」
「あの、何があったか分かりませんけど、早まらない方が……」
「うるさい!こっちは命がかかってんだよ!」

せっかく下手に出て心配してあげたのに、怒られた。このまま連れて行かれて、男に言ったように上のフロアで大声を上げても良いが、人がいそうなのは社長室、副社長室の二部屋だけ。廊下で叫んでも気付かれない可能性大だ。
よし、頭突きしよ……と思った瞬間、男のPHSが鳴る。先ほど一方的に電話を切った相手なのだろう、焦った様子の男が通話ボタンを押した。掴まれた腕にぎゅっと力が込められて、不快感がこみ上げる。

「っ……俺だ、ああ……いや、何でもない。それで、どうするんだ?…………、……わかった……」

男は力なく呟くと通話を終了した。
心なしか顔色が先ほどより悪くなっている。濁った目に見つめられて嫌な感じがした。

「悪いが、俺が逃げるまでは喋ってもらっちゃ困るんだ。しばらく付き合ってもらう」
「逃げる……?」
「頼むよ、あんたはジッとしててくれればいいし、俺がいなくなったら何でも喋ってくれていいから!」

喋るもなにも、別に何も聞いていないのだがこいつが専務の仲間だと知った以上、専務の悪事を知る私が彼らにとって都合の悪い存在であることは否定しない。殺される、とまで男が言うそいつらが何者か知らないけれど、どこで見ているか分かったものではない。あんなに堂々とデータを盗んでいた奴だ。ひょっとしたら盗撮もあり得る。いま、騒ぎを起こして男と関係があると思われるのは厄介だ。ここは大人しく言うことを聞いて、ジッとしているのが得策か。



バタン。カチッ。

そのようなわけで、私は無理矢理連れて行かれたふりをしてジッとしていることになったのだが。
男は、専務の部屋に私を押し込んで椅子にガムテープでぐるぐる巻きにし、部屋の鍵をかけていった。焦りすぎたのか不慣れなのか、正直、雑である。

「………………ひどい」

シンとした部屋にひとり、年頃の女が椅子にくくりつけられている。日が落ちて暗くなってきた。なんてことしやがるんだ。悪魔としか思えない。別にこんなことしなくても大人しくしてるのに。もう帰る時間だったからPCは落としてきたし、鞄もロッカーの中なので私がここにいることに誰も気付かないと思う。まあそれは問題じゃない。縄抜けすればいいし鍵も内側から開く普通のドアだ。そういうことではないのだ。ひとまず、ベタベタなのが嫌なのでさっさとテープから抜け出したいが、この部屋に隠しカメラがあった場合を考えてテープを外すのにわざと時間をかける。

「……」

すっかり真っ暗になった。部屋のどこかから低い音が響いてくる。冷蔵庫かな。
……待てど暮らせど誰もこない。
てっきり専務が何の脈絡もなく現れて、高笑いしながら悪事を全部喋ってくれると思っていたのに。物語ってそういうものでしょう?
などとくだらないことを考える。

も、もう出てもいいかなぁ……?

部屋に押し込められて何時間か経った。外を走る車の音がまばらなことから考えて、21時から22時の間といったところだろうか。もう男もどこかに逃げただろうし、そろそろ外に出ても問題ないはずだ。
とりあえず自分のデスクに戻って荷物を取ろう。
専務の部屋から出て、階段で4階に降りる。夜目は利くほうだが、さすがに真っ暗闇では移動に時間をかけた。
フロアに入り、自分のデスクに向かおうとしたその時。

「……おや、てっきり逃げ出したかと思いましたよ」
「っ!?」

唐突に背後から、声が聞こえた。
私は咄嗟にしゃがんで、他のデスクに身を隠す。

今の、声は。
……何故、彼がここに?
普段と変わらない穏やかな口調が逆に恐ろしい。

懐中電灯の明かりが、私のすぐ頭上を通過して行った。
思わず息を詰める。

「姿を見せてください。初めまして……ですよね?」
「……」

姿を見せられるわけがない。これがまったく知らない人物だったのなら、今の今まで捕まっていたと言えば誤魔化せたかもしれないが。

安室透。
1週間ぶりに聞く彼の声は、どこか冷ややかさを帯びていた。




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