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18-27 (14-5直後)



西の空に浮かぶ雲がところどころ茜色を残して藍に染まり、じきに夜の帳が完全に下りようという頃だった。それらをフロントガラス越しに視界に入れながら、いつもはエンジン音しか聞こえない車内で女性の声を聞く。

「安室さん、今日は付き合っていただいてありがとうございました」

ちらと助手席を見ると彼女と目が合う。星村類、そう名乗る女とあれから何度かポアロで顔を合わせていた。今日は以前話していた商店街を一緒に見て回り、その帰りだ。

「いえ、僕も店の買い物がありましたので」

気にしないでください、そう言って口角を上げる。星村類のことを調べさせたが、特に変わった経歴もない普通の女性だった。それとなく組織の人間ならば反応する言葉を会話に混ぜてみたこともあったが、まったく動じない。それどころかどういう意味かと尋ねてくる始末だ。これで組織に関係のある人間だったら会社員などではなく女優にでもなるべきだろう。ただ、単に使われているだけの人間だから組織のことは何も知らない可能性はある。
あの、と、控え目に呼ばれてもう一度彼女に視線を遣った。

「……良かったんですか?」
「何がです?」
「私と一緒にいるところ、見られて良かったのかなって」

彼女は名前を出さなかったが誰のことを言っているのかは明白だった。10分ほど前、商店街での買い物を終えて駐車場に向かって歩いていた時のことだ。前方に男女が並んで歩く後ろ姿を見つけた。商店街の客層はやや年配の女性客が多いものの、その組み合わせはまったく珍しいものではない。それを目で追ったのは片方に見覚えがあったからだ。何かを話しながら、喧騒のせいか時折男の方が女に顔を寄せる。肩を震わせる男と、そんな男に顔を向けて呆れたように目を細める女。その様子は気のおけない友人のようでもあり、恋人のようにも見えた。

「やだな、前も言ったじゃないですか。ナナシさんはただの常連さんですよ」
「でも……」

夕間暮れの駐車場の入口で彼らは足を止めて向かい合う。「どうしたの?」と、男がそう言うのが口の動きで分かった。その男をじっと見上げる女。そんなふたりに声をかけた安室透の様子が、助手席の彼女にそんな言葉を言わせているのだろう。やれやれ、と吐いた息は自身への呆れなのか、安室透の言葉を素直に信じない星村類へのものか。

「ナナシさんはそういうことを気にしてくれないので……なんてね」
「…………」

冗談と分かるように口の端を上げると、彼女は僕をじっと見つめてから諦めたように前を向いた。星村類は「安室透と仲良くしなければならない」と考えている。それは恋愛感情ではなく、それを装えるほど器用でもないことは何度か会って話すうちに分かった。目的はやはりナナシさんの情報だ。
ミョウジナナシは愛人であるという疑いを持たれるほどに嶋崎豊と懇意である。疎んでいる者もあれば近付きたいと思っている者もあるだろう。嶋崎に直接は言えなくとも、下心を持って近しい存在であるミョウジナナシに情報を漏らす人間はいるかもしれない。仲の良い探偵ならばミョウジナナシが個人的に得た厄介事を相談されていてもおかしくはない……嶋崎家のことだけでなく、例えば半年前に行方不明になって最近遺体が発見された例の男に関することであるとか。それで安室透に接触してきたのだ。星村類が、ではなく彼女の背後にいる人物が。それがジンである可能性は低いと考えているが、ならば誰がということになる。ここでナナシさんと自分は何の関係もないと突き放すこともできるが、安室透から何も探れないからといって狙いを変更されても困るのだ。しばらくは曖昧な情報を掴ませて相手を引き付ける必要があるだろう。
ただ素人故なのか駆け引きも何もなく、思わずこちらが心配になるような探り方をしてくるので、安室透はある意味でハラハラしていた。

「このあいだナナシさんに聞いたんですけど……前に安室さんがナナシさんの会社の事件を解決したって」
「ええ、まあ。お困りごとがあればいつでもご相談に乗りますよ」
「……他にも、ナナシさんから依頼を受けたりしているんですか?」
「それは、たとえ受けていたとしてもお話しできませんよ……」

苦笑して答えると、彼女はそうですよね、と俯く。ここまで正面からぶつかるなんて、これが安室透だから良かったものの、悪意ある人間だったら嘘を吹き込まれて騙されそうだ。……しかし本来、普通の人間はこうなのだ。安室透の隣に何の違和感もなく並びながら、けれど不用意に近付きすぎず、踏み込ませない。疑われても意にも介さず、自分だけ色々聞かれるのは不公平だなどと言い放ち、妙な威圧感で僕に迫った女性がいかに特異か分かるというものだ。その行動そのものというよりも、それを今のいままで気付かせなかったことが……。

「……ナナシさん、最近ポアロに来ませんね」
「梓さんは……あ、女性の店員さんですけど。彼女は会っているみたいですよ?単に僕のシフトと時間が合わないようです」

ポアロではしばらく会っていない。上着を返すという約束を自分からすっぽかして最初にそのように仕向けたのだが、一切顔を合わせないつもりはなかった。星村類の前で親しげなところを見せなければ良いのであって、いない時にはいつも通り言葉を交わすことができると考えていた。けれど実際は、ナナシさんは僕が教えたシフトを意図的に避けてポアロに来ている。会わないようにしましょう、などとメールで伝えた覚えはない。梓さんが「3日連続でナナシさんが来てくれた〜」と張り切って仕込みをしているのを聞いて、何故か一度も遭遇しない僕は避けられていることに気付いた。上着を渡すことになった原因の一件を怒っているのかもしれない、とも思っていたが、先ほどの様子は普段通りだったように思う。
それにしてもあの黒い服を着た男、どこかで見たことがあるような……どこだったか。

「……そういえば類さん、聞かないんですね」
「え?」
「さっきナナシさんと一緒にいた男ですよ……恋人かどうか気にならないのかな、と」
「…………それは……そういう感じには見えなかったので、」

……そうですか。そう言った自分の声は加速するエンジンの音に低く混じって、彼女に届いたか分からなかった。




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