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18-25 (14-2と14-3の間)




蛇口を捻って水を止める。店内に客はなく、あと15分程度で店じまいだ。閉店準備をと思って手を拭いていると、控え目すぎるドアベルの音が鳴った。

「……あ」

少しだけドアを開けたまま顔を覗かせた女性と目が合って、向こうが声をあげる。見たことのない顔だ。

「いらっしゃいませ」

にこりと笑いかけると女性はそっと店内に入ってきた。ちらりと店の時計を気にしたのを見て、こちらから声を掛ける。

「どうぞ、まだ大丈夫ですよ」
「は、はい」

グレーのスーツ姿で肩につかないくらいの黒髪。年齢は20代半ばくらいか。格好だけ見るとこの近くの会社のOLのように見え、どこか落ち着きがない。水を運んだあと、少し観察してからテーブルに近付いてご注文はと問い掛けたが、女性はぼーっとこちらの顔を見たまま固まっている。

「あの、どうかされましたか?」
「……あ、す、すみません!紅茶をいただけますか」
「かしこまりました」

仕事の後で疲れているのだろうか。スーツは真新しいわけではないので新入社員で……ということでもなさそうだ。カップに紅茶を注ぐ間もこちらを気にしている。女性のこういった反応に覚えがないとは言わない。だがそういった態度ともどこか違うような。ダージリンティーの乗った盆を持ち上げたところで、視線がすいっと外された。

「甘い物はお好きですか?」
「……え?」

カップをテーブルに置いて、続けて一緒に持ってきた皿をその横に置く。乗っているのは切り分けられた生クリーム入りのシフォンケーキ。一見して味の想像がつくような、特に何の工夫もないようなものだ。長い睫がぱちりと瞬いた。

「試作品なんです。よかったらどうぞ、紅茶に合いますよ」
「あ、ありがとうございます……」

彼女は皿と僕を交互に見てからフォークに手を伸ばした。柔らかい生地を一口サイズに切り、クリームと一緒に口に運ぶ。その指がよく見なければ気付かないくらい、少しだけ震えている。初対面の男の前で相応に緊張している普通の女だ。出したケーキは別のソースを作るために焼いたものなので試作品というのは嘘だったが、それでも女は「美味しい……」と瞬きを一つして呟いたので、僕はにこりと笑ってみせた。

「そうでしょう?別のお客さんにも好評で……近々メニューに追加しようかと」
「別のお客さんって、ナナシさん?」
「……え?」

先ほどまでの様子はどこへやら、女はそこでフォークをぎゅっと握ってそんなことを尋ねてきた。突然出てきた名前に僕は首を傾げる。

「もしかしてナナシさんのお知り合いですか?」
「……い、いえ……」

ナナシさんがここに誰かを連れてきたことはないが、ポアロには昔から通っているようだから友人が知っていても不思議はない。すると女はハッとしたように目を見開いて視線をさまよわせ、口ごもった。咄嗟に言ってしまったようだ。どこか妙な女の態度に内心ではますます首を傾げる。

「彼女はここの常連さんなので、もちろん召し上がっていただきましたよ」
「あの……個人的な連絡を取ったりとかは……」
「…………」
「あっ!ち、違うんです。友達からここに素敵な店員さんがいるって聞いて……でもナナシさんっていう方とお付き合いしてるって……今日初めて来たら本当に素敵な方だったので、彼女がいるか気になって」

これまで挙動不審だったのに、そうやって語る口調は淀みない。これは元から用意された話だ。このタイミングで喋る予定だったかどうかは分からないが。

「そうなんですか……はは、照れますね……彼女はただの常連さんですよ」
「……そうですか……」

答えると女は肩の力を抜いて僅かに表情を緩めた。確かに安室透はナナシさんと話すことも多いが、店で他の客と差が大きく出るような接し方はしていない。一緒に歩いているのを見られていたとか、そういうことならばまあ噂が立つのも仕方がないが……これまで無意識にそういった心配とは無縁な気がしていた。
気になるのはベルモットが、ジンが人を雇っていると言っていた話だ。こんな素人をジンが使うのは考えにくい。しかしもしそうだとしたら目的は嶋崎と親しい関係にあるナナシさんか……だが、僕の恋人ではないと聞いて安堵したように見える。深い仲だと疑って僕に近付いてきたのなら落胆するはず。それにジンならばこのような回りくどいことはせず、バーボンに直接尋ねてきそうだが……弱みを握られるかもしれない可能性を考えて接触を避けているのか。

「…………」

明日は彼女が上着を返しに来るのだったか……会わない方がいいかもしれないな。この女の目的が何なのか少し探る必要がある。少なくとも女の目の前でナナシさんと顔を合わせない方が良いだろう。調べてみて、ただ安室透と仲良くなりたいだけの女だったならばそれで良い。

「もしよろしければまたいらしてください。あ、僕は明日はいませんけど……」

安室透はにこりと完璧な笑顔を女に向けた。




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