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18-17 (12-4 と 12-5の間)


「安室さんは、優しかったのに」
「……僕はずっと優しいですよ」

あなたはやさしくないから。
そう言った彼女の爪がシャツ越しに緩やかに食い込んだ。
安室透に似た男、なのだろう。彼女が見上げているものは。そして男はそんな彼女に構いもせず、傷ひとつない肌に顔を寄せた。

「……寝込みを襲うなんて、最低」
「すみません……」

探るように下ろした左手の指を服の裾から侵入させる。かさついた指先でなぞる柔らかな体がびくんと跳ねるのを掌で難なく押さえつけて、直に伝わってくる腹部の温もりに繰り返し触れた。本当はこの中の温度を確かめたい、指じゃなく、舌でもなく……。もはや邪な考えしか浮かばなくなっている男を胡乱な目で見上げる彼女は、一体この状況をどう切り抜けるつもりなのか……そんな意地の悪いことを思う。と、片方だけ自由になった腕が伸びてきて、その手が俺の前髪の上あたりをくしゃりと握った。少しだけ困ったように眉尻を下げた男に迂闊に騙される気配もなく、彼女はじっとこちらを観察している。

「ナナシさんには何が見えてるんですか?」
「なにって、安室さん……」
「……それだけ?」

違うでしょう、そう言ってキスをする男はどんな返答を期待しているのか。もし彼女がその通りに認識してしまうようなことがあるなら、それは自身の失敗に他ならないというのに。安室透も彼女が何を見ているのか気にしていたが、もっとタチが悪い。自分がどう見えているか知りたいなんて、そんな馬鹿なことは。

「あ、安室さん……だめだってば、」

際どく這い上がる手を制する指はやけに熱を持っていて、余計に男を性急にさせる。冷静に見えて内心では焦っているのか、しっとりと汗ばんだ彼女の肌に触れながら、

「安室透じゃない、僕は……」

そんな愚かなことを口走った。
音もなく囁いた声なんて、どうせ彼女には伝わっていない。



「……!?」

仕事をしない理性より、感覚的な野生の勘の方がよほど役に立ったようだ。何もないはずの空間に突如現れた何者かの存在感に体が硬直する。強い威圧を伴うそれは、その人間がわざと気配を見せたことを示していた。だが、この部屋には彼女と自分以外はいなかったはずだ。そもそも、この家に他の人間がいるはずがない。だが肌が粟立つような気配の主は確実にすぐそこにいる。この部屋の中に……。体勢は変えず、視線だけを周囲に巡らせる俺の頬に一筋の汗が伝った。
自分は恐怖を感じることが少ないほうだ。サイコパス、などと例の組織の人間に揶揄されたこともあったが、本当に恐怖の感情が欠落しているわけではない。表面上は魅力的に見えるように振る舞い、その実冷淡で嘘ばかり吐き、良心が欠如している……確かに組織での情報屋としての俺の行動はそう言われても仕方がない。前にも述べた通り、いもしない人間を作り上げるのに自身の中にある抑圧された性質……それを利用しているのは間違いなく、彼等のような反社会的人格者と似通った性質はどこかにあるかもしれないとは思う。そんな自分が、これまで感じたことのないような恐怖を感じている。

「誰だ……!?」

シンと静まり返った部屋。呼び掛けに返事はない。姿も見えない。……だが、誰もいないはずがない。はじめから潜んでいたのに、そんなことは造作もないとばかりに存在を察知させず、成り行きを見守っていた何者か。これだけ強く存在を示しておきながら殺気が感じられないのは、お前などいつでも自由にできるということか。下を見れば組み敷かれている彼女は再び目を閉じており、僅かな間に寝入ってしまったようだった。すぐにでもこの膠着した状態を打破しなければ……そう思うのに、目が離せない。薄く開いた彼女の唇から。こんな状況なのに、欲しい……なぜ。抗いがたい衝動に、考え始める前に体が動く。もう一度その唇を奪おうとして、覚えのある無機質に硬いものが、俺の後頭部に押し付けられた。




「……っ!!」

息を飲んだ瞬間、視界が明るくなった。舞台で場面が転換したかのような急な変化について行けずに体が固まる。何が起きたのか理解が追いつかない。目の前に広がっているのはどことなく見慣れた部屋の風景だった。

「朝ですよ。寝ぼけてるんですか?」

さらりと、髪が流れる様子を見て目を見開く。それは彼女が寝ているのを良いことに好きに弄んだあの艶やかな髪。つい先程まで自分の下にいたはずの女が、寝ている俺を首を傾げて覗き込んでいた。

「…………」

部屋の中は薄暗いが、カーテンの向こうが明るくなっている。朝だ。……夢?どこからどこまでが?指先に残る感触も、女特有の甘い匂いも、舌で感じた体温もやけにリアルな……。あの気配は綺麗になくなっている。目が覚める直前に頭に突き付けられたのは間違いなく拳銃だった。見えていたわけでもないのに、なぜか確信した。
寝ぼけているのかと問う彼女に向かって、いえ、と答える。働かない頭をとにかく覚醒させようとしっかりと彼女を見つめて、そこで俺は見つけてしまった。彼女の身につけたエプロンの肩紐の近く、シャツから見えている鎖骨の部分。赤い痕が、くっきりとそこにあるのを。昨日彼女と別の男の関係を問い詰めたばかりだったが、不思議なことにそいつがつけたとは微塵も思えない。じゃあ、これは?体を起こしながら自分の手で顔を覆う。……分からない。

「朝ご飯ありますけど、食べます?」

いただきます、辛うじてそう返事をする。彼女の肢体を指の下からつい見てしまって、俺は理由も分からずに、とにかく気が気じゃなかった。




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