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19-5



手前の部屋を通り過ぎて、抱き上げられたまま廊下の一番奥の部屋へと連れて行かれた。
つまらない部屋、と互いを褒めあったのは結構前のことだ。つまらないというよりは生活感がまるでない。男の一人暮らしとは思えないくらいゴミもなければ、洗濯物の類もない。まず何かが落ちていたり放置されているということがない。かろうじて壁際に見たことのある男物の服がハンガーで吊るされている。昨日なくしたと思っていた私のチェック柄の帽子もそこに引っ掛けてあった。部屋の端にあるベッドに下ろされて、反射的に安室さんの腕を掴む。屈んだ状態のまま動きを止めざるを得なかった彼が、視線を逸らしている私を見ている気配がした。

何が目的でこんなことをするんですか。とは、聞けなかった。……さっきのやりとりがなかったらそんな風に尋ねていたかもしれない。それこそ過去の男が取るであろう行動と比べてみて、安室さんがこれからしようとすることに何らかの意味を当てはめていたかもしれない。意味なんてない。これは私が、温度を持たない過去の亡霊と生身の人間を重ねてしまったことへの罰だった。
温かな手を持つ男は、その長くて黒い指先を私に伸ばしてくる。姿のない男にはどうしたってそれを止められない。安室さんの方を向かされて、私は微かな抵抗として眉を寄せた。

「嘘つき……」
「ああ……胸の怪我ですか。見ますか?」
「絶対に見ない……」

さっき触ってみた感じ、そこに怪我なんてなかった。非難をこめて掴んだ太い腕にシャツの上から爪を立てる。が、まるで気付いていないかのように何の反応もない。中腰の体勢から男が片膝をついたことで、一人分のベッドが僅かに音を立てた。無意識に後ろに下がろうとした私の手のひらは、ふかふかと手触りの良いシーツに沈む。

「それで、言う気になりましたか?……言わなくても僕的にはまったく構いませんけどね」
「……っ……脅迫するなんて最低。おまわりさんのくせに」
「あなただって大概酷いですよ……僕の正体を言い当てておいて、そんなことは興味がないとばかりに別の人間に目を向けているんですから」
「……べつに、他の人なんて見てないです」
「そうですか?昨日はFBIやあの男にも会っていたでしょう」

ギシリ、二人分の重みでスプリングが軋む。とうとう全体重をベッドに乗せてきた男は爪を立てる私の手を掴んで、難なく自分の腕から引き剥がした。
やはり昨日刑事さんに会っていたことはバレていたようだ。そしてどうやら、この人の前から逃亡してしまったことへの怒りは収まっていないらしかった。本当に赤井さん絡みになるととことん面倒な男である。安室さんは私を覗き込みながら続ける。

「僕はこれでもずっと上手くやってきたんです。あなたは僕のことをバラバラにしてそのまま放置するし……まだ何か企みがあったと言われた方が納得できましたよ」
「ば、バラバラ?大丈夫ですか?早く戻った方がいいですよ……」

特に組織のお兄さんは厳重に管理してください。よく分からないけど。言いながらシーツの上で後ずさる私を簡単に引き寄せて、男は低い声でナナシさん、と囁いてくる。次第に狭まる距離にもう時間がないことを突き付けられるが、彼の問いには答えられそうにない。実は前世の記憶があって、あなたと似ているのでつい重ねて見てしまうんです。そんなことを言ってこの人に信じてもらえるはずがなかった。もし仮に前世を告白して信じてもらえたとして、その後はどうなる?彼にとって一般人であるはずのその女は不思議な存在で、だからこそ執着していた。真相にたどり着けばこの人はその女からたちまち興味を失うかもしれない……そうなったら、私は。……あれ?
眼前に迫っていた金色の髪が私の肩に擦り寄る。

「……この状況で考え事ですか?」

また僕を放ったらかして。溜息と共に安室さんが体重をかけてきて、ふたりで崩れるようにベッドに倒れた。視界に広がった天井を一瞬で遮った男の顔がじっとこちらを見下ろしている。弾みでシーツに散らばった髪を人差し指ですくい上げた男は、長い睫が生え揃う瞼を少しだけ伏せて、そこに唇を寄せた。端正な眉目が憂いを帯びて私の髪にキスするのを目の当たりにして、神経なんて通っていない毛先から熱でも伝わってしまったかのように頬が熱くなる。健康的な褐色の肌に金髪に近いミルクティーブラウン。色素の薄い髪がブライト・スカイ・ブルーの瞳を美しく引き立たせていて。……見慣れた男の顔だ。きっと私は今、揶揄われても反論できないくらい赤くなっているだろう。……なぜ。そんな私を余すところなく観察しながら、彼は乞うように言う。

「演技でもいい、僕を懐柔しようとしてくれたら……あなたに簡単に跪くのに」
「…………そ、んな恐ろしいことはできません……」

く、口説かれている。いや、そそのかされている?口調や態度とは裏腹の、正体を暴いた以上は責任を持って飼えと言わんばかりの物騒な言葉だった。ずるい男だ。自分からは決定的な言葉を言わないくせに、女のほうからそうさせようと仕向けている。何か目的があってそういう作戦に出ているに違いない、と、今までの自分ならば思ったかもしれない。けれど次にあの男と彼を重ねてどんな痛い目に遭うか分からないので、私は心を無にするしかなかった。組み敷かれて身動きもろくにできない女に、男は触れるか触れないかの口付けを落とす。キスを交わさなくても互いの呼吸が混じり合う距離。無理矢理ここに連れてこられたはずなのに、おかしい。もっとちゃんとしてほしいなんて。

「……なんだかんだで、あなたは僕が可愛いでしょう?」
「そ、それ、この状況で聞くこと……?」

今、どう見たって可愛がられようとしているのは私なんですが?どうしよう、あの手この手でくる。というか、そんなところまで読まれてるとか恥ずかしいを通り越して驚愕からの、ものすごく恥ずかしい。
安室さん以外は大して可愛くない。顔を背けてそう答えると、ふっと笑った彼が少しだけ上体を起こした。大きな手がブラウスの裾からするりと入ってきて、ウエスト部分が紐で結ばれたままの布地は指に引っ掛かってずり上がる。私は慌てて不埒な手を掴んだ。

「皺になっちゃうから、だめ。借り物なんです」
「じゃあ脱ぎましょうか」
「違くて!ちょっと……!」

腰のところにある紐を必死でガードしながらも、指先だけ侵入している手が脇腹をなぞってきて思わず身を捩った。まずい。安室さんの手首を掴んで押し退けようと力を込めても1ミリも動かないどころか、かさついた指の腹で悪戯に肌を撫でられる。

「は、話し合うのが先ですよね?いくらなんでも普通、そうしますよね!それに伝言もまだ伝えてないし……!」

もうなりふり構わず、私の機嫌を損ねてもいいの!?とばかりに喚いた。途端、戯れのように動いていた彼の手が止まって、次の瞬間には素早く両腕が伸びてくる。ガシリと勢い良く両方の手首を掴まれて、私はその力強さに驚いて安室さんを見上げた。薄く開いた唇が不敵に笑みを形作っている。

「もちろん聞きますよ……弱らせてから」
「ひっ……!?」

あまりの台詞に小動物のごとくビクッと震えた私を、ひとりの男が目を細めて見下ろしていた。




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