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19-3



「昨日はすみませんでした……色々とご迷惑を」
「…………」

促されて乗り込んだ安室さんの車は珍しく雑然としていた。ドアを閉めてシートベルトをしながら、後部座席に放られた茶色のジャケットや書類のようなものを視界の端に入れる。事後処理はもう済んだのだろうか。服装は昨日と違ってネイビーのシャツに黒いパンツという全体的に黒っぽい格好になっており、一見しただけでは怪我をしていることも分からない。頭の他にも傷を負っていそうな感じだったが、シャツの袖を肘まで捲っている腕や、少し開いた胸元を見る限りでは確認できなかった。

「私が工藤さんのお宅にいるって、よく分かりましたね」
「…………」

私の声と、車線の内側に戻るウインカーの音だけが車内に響いた。車は狭い路地のカーブをものともせずにスムーズに走行して、大通りへと抜ける。
どうしよう、とても気まずい。昨夜眠りに落ちる前に送ったメールでは、知り合いの家にいるとしか書かなかった。私が工藤邸にいると予測して出てくるところを待っていたのだろうが、一体いつからいたんだろう。電話でもしてくれれば早めにおいとまして合流することもできたのに。ちらりと窺った安室さんの表情はいつもと変わらないように見える。先程から返事をしてくれないのは昨日のことをまだ怒っているからか……所在無くシートベルトに触れていた手で鞄を持ち直して、膝の上に置く。
連絡もせずに迎えに来た理由で考えられるのは、私に逃げられないようにするためだ。私は彼らにとって重要な情報を握っている。もちろん降谷さん以外にこの情報を渡すつもりはないけれど、彼自身はそう思っていないかもしれない。昨日は赤井さんと協力して何かをしていたように見えてしまっただろうし、FBIに取り込まれているのではないか……そう疑うのはもっともだ。まあ、赤井さんのことが嫌いすぎて単純に機嫌を損ねているのもあるんだと思うけど……。
大きくて骨張った褐色の手がシフトレバーを握っている。その手の甲から腕のほうまで綺麗に浮き出た太い血管を眺めて、男の人だなぁと思いながら、少しだけ怖くなってもう一度安室さんの顔を見た。

「あの、何か喋ってください……」
「……ナナシさんはあの家が誰のものか知っていますか?」
「……え?工藤新一君の家、ですよね」
「面識は?」
「一応ありますけど……」
「そこに沖矢昴という大学生が住んでいるでしょう」
「え、ええ……」
「あの家は無人で、一時期幽霊屋敷と呼ばれていたんですよ。妙だとは思いませんか?家主が不在の家に、近隣住民が一度も見かけたことのない男が最近になって突然現れたんです」

工藤新一君を知っているなら、彼のことも知っているんじゃないですか?そう問われて、私は首を横に振ってよくは知らないと答えた。沖矢さんがどうしてあそこにいるのか知らないので、半分は嘘じゃない。……というか安室さんは沖矢さんの中身が赤井さんだってことに気付いているんじゃないのか。知っていてこちらを試しているのかも。近隣住民が、ということは聞き込みでもしたんだろう。あの家に何らかの疑念を持って動いていたということだ。下手なことは言えない。

「そうですか……あなたはよく知らない男がいる家に泊まるんですね?」
「それは……工藤君のお母さんや類さんも一緒だったし……」
「ああ、そう言えば彼女とはいつ仲良くなったんですか?一緒に水族館に来ていたようですが」
「えっと……昨日ポアロの前で偶然会って……」

ちょっと遊びに、と言おうとして途中でやめた。……この男は昨日の私の行動をどこまで知っているんだ。もしかして類さんの方に見張りでも付けていたのか。だとしたら脅されて水族館に行ったこともばれているかもしれない。そして、この分だと昨日刑事さんと接触したことにも気付いているのでは。おそるおそる安室さんを横目で見ると、運転しながら同じようにこちらを見た彼の視線とぶつかる。その表情はやはり普段と変わらないように見えるが、下手なことは言えない。2回目。

「ふ、不可抗力だったんです、昨日のは。前にも言いましたけど、私だって危ない目に遭おうと思ってるわけじゃないんです」
「……そのようですね」
「……え?」

てっきりここぞとばかりに何か言ってくると思ったのに、意外にもそんな言葉が返ってきて私は目をぱちくりとさせた。状況を理解してくれている、のだろうか。前に向き直った安室さんは短く息を吐き出して、シフトレバーから左手を離し、自分の前髪をくしゃりと掻き上げる。

「あなたがあまりにも僕の予想外の事ばかりするので、どうすればいいかずっと考えていたんですが……」
「えっ」
「言ってどうにかなるものでもありませんね」
「…………なんか、すみません」

これは呆れられたというか、諦められてしまったのだろうか。何度も言っている通り私だってわざと事件に関わっているわけじゃない。その言い草に物申したいことはあれど、まあ、ある程度の諦めは必要だとは思う。ちなみに私はもう諦めてる。とりあえず謝罪を述べた私に、安室さんは緩やかに頭を振った。短い金色の髪の毛先が揺れるのを見つめて、少しだけほっとする。昨日はかなり怒っているようだったので色々とドキドキしていたのだ。

「僕にも責任はあります。一般の方であるあなたを巻き込む事態になったのは、こちらの失態ですから」

潜入捜査員に危機が及んだ時、対処法はその組織で定める細かなルールがあるはずだ。”殉職した捜査員が残したメッセージがどこを探しても見つからない“などという事になったのは、確かに失態と言えなくもない。しかし相手は規格外の怪しい悪の組織である。もう少し他の組織や部署と連携するとか、何とかならないのだろうか……と考えて、それは自分が外部にいるからこその思考なんだろうなぁと思った。安室さんは続ける。

「ナナシさんにいつまでも危険な情報を預けたままで、申し訳なく思っていました」
「安室さん……」
「これから向かう場所で、聞かせてくれますか?」
「はい……もちろんです」

彼が必要最低限の言葉しか言わないのは、癖でもあり万が一を考えてのことなんだろう。車に乗ったは良いものの、どこに向かっているのか実は分かっていなかったのだが、そういうことだったらしい。アクセルペダルを踏み込む音と加速するエンジン音が重なって、私の気持ちもはやる。ようやくあの伝言を伝えられるのだ。

「…………」

見慣れない景色が窓の外に流れるのを見つめながら、一瞬だけ安室さんの視線を感じた。




こういう場合、盗聴の心配がない場所というと、完全な野外かチェックを完璧に済ませた密室ということになる。要人の密会に使用されることも多いホテルなどは人の出入りを把握できないため、危険だ。人知れず組織に潜入している安室さんにとって野外という選択肢はなかったようで、車は住宅街の中に入って行く。
私は、連れて行かれたそこがどこなのかあまり気にしていなかったのだと思う。私が持っていた情報は安室さんにとっての最重要事項であり、それ以外に優先するべきものなどない、特別なものだと……そう思っていた。そう思っていたので、駐車場から彼の後ろに続いて真新しい綺麗なアパートまで歩き、並ぶドアの一つから中に入って、靴を脱いだ。

「……あの、」

そうして私は今、玄関から上がったすぐのところで安室さんを見上げている。背には硬い壁の感触があって、にこりともしていない彼の相貌が黙って私を見下ろしている。そういえば、今日は一度も笑った顔を見ていない。電気も点けず、薄暗い中、息苦しさを感じるのはこの距離だけの問題じゃない。

「う、……っ」

無理に重ねられた唇が熱かった。待って、とか、何か制止の言葉を言ったかもしれないけれど、私はその瞬間とても混乱していた。玄関の扉はすぐ近くにあるのに、囲い込まれた場所から手を伸ばしても、届きそうにない。

「言ったでしょう、どうすればいいかずっと考えていた、って……」

今日聞いた中で一番穏やかな安室さんの低い声が、私にそう囁いた。




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