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18-14 (11 と 12の間)



「さて……ではナナシさんの家に向かいましょうか」

運転席に乗り込んでドアを閉めると、遠くから聞こえていた車の音や風の音はシャットアウトされた。シートベルトを締める間、助手席のシートに座る彼女はこちらを見ることなく俯いている。いつだったか、スポーツカーに乗るのは初めてだと言ってそわそわしていた頃とは別人のようだ。少しずつ暗くなり始めた夕間暮れの道を走りながら、息を吐くように容姿を褒めた僕に彼女はくすくすと笑い出して。何かを見抜かれているような、年下であろう彼女がまるで仕方なく僕の相手をしてくれているような……何故か不思議な気分になったことを思い出した。……否、別に世辞で言ったわけではなかったのだが。その人間と少なからず今後も関わるのなら、心にもないことを軽々と口にすることは望ましくない。自分が言った言葉を忘れてしまうからだ。安室透は首を傾げながらやはりそこでも、窓の外を眺めるナナシさんが何を見ているのか気になっていた。

「……あの。近くまで送っていただければあとは自分で帰れますから」

非力な女を駐車場で追い詰めて、車に乗せるのは簡単だった。逃れたい気持ちの現れか、僕との間に線を引いているつもりなのか、シートベルトを中途半端に伸ばして持ったまま渋る彼女を見つめる。思いきり怖がらせてしまった自覚はあるが、今のナナシさんは恐怖というよりもただ落胆しているように見えた。しゅんと力なくうなだれる様子を無遠慮に眺めて、わざと溜息を吐く。ぴくりと指先を動かした彼女はようやく顔を上げてこちらを見た。

「もう本当に元気ですし、は……話があるなら車の中で」

聞きますから。硬い声で言った彼女の表情もまたかたく強張っている。そういう態度を取られればそれだけ僕は裏腹に寛容になれた。何も彼女を捕えて優越を感じているとか、そういうわけではない。そんな顔を初めて見るなと思ったら、心のどこかが軽くなったような気がしたのだ。

「言ったでしょう?あなたの時間が欲しいんです」
「や、やっぱり家に来る気なんですか?」
「僕もあなたとゆっくり話がしたいんですよ」
「それ、ここでもできますよね?」

助手席のドアのほうに限りなく寄り、ナナシさんはシートベルトを握り締めてこちらを鋭い視線で見た。それでも降りることはしない。どうせすぐに捕まってしまうと分かっているので行動に移せないのだろう。些細な抵抗は何の妨げにもならないが、彼女の意志は大切にしなければならないので、僕は自分のシートベルトをカチャリと外す。

「そうですか……では僕の家に行きましょうか」
「……え?何言って、」
「僕、最近引っ越したばかりなんです。米花町内なのでここから近いですよ。近くにスーパーもあって結構便利です」
「…………」

狭い車内で手を伸ばすと、難なく彼女が持つ助手席のシートベルトを取り上げた。細い指が驚いたように開かれて行き場に困るのを横目に、彼女の代わりに差込口にベルトを嵌める。急激に密着した体に息をのんで呼吸を止めたナナシさんを至近距離で見ると、目が合って小さく声を上げた彼女がぎゅっと瞼を閉じて硬直した。まるで刺激しないように死んだふりをするかの如くである。……僕は野生動物じゃないんだぞ。傾けていた体を元に戻して、首を傾げる。

「僕の家とナナシさんの家、どっちがいいですか?」
「…………」
「……選べない?困りましたね……ゆっくり考えていいですよ」

曲げた右腕をハンドルの上部に預けて、その手の上に自身の頬を押し付けた。彼女を斜め下から覗き込むように見つめると、こちらをチラリと見た彼女が「くっ……」とどこか悔しそうな呻き声を上げる。まだ折れそうにない。ハンドルに体重を支えられながら瞬きをゆっくりとする。実はあの男のせいであまり寝ていないし、ろくに食事もとっていない。こうして静かな車内にいると眠ってしまいそうだなどと考えたが、人前で眠るなどあり得ないことだと思い直して、僕は口を開いた。

「ナナシさんは最近、朝は来なくなりましたね。モーニングは口に合わないですか?」
「……安室さん……?」
「はい?」

急にポアロの話をしたからだろうか。確かめるように名前を呼んだナナシさんはじっとこちらを見つめてくる。もしかしたら彼女も、今目の前にいるのが誰なのか気にしているのだろうか、と考えた。同時に今日の僕はどうやら、安室透ではない誰かに見えていたようだ、とも。

「いま、見てるドラマが夜遅いのが多くて……」

まだどこか窺うように僕を見ながら、彼女はそう答える。よくポアロでもドラマを録り溜めて休日に見るような話をしていたので、見ているものがいくつかあるのだろう。遅い時間にも関わらずリアルタイムで見るということは、特別に好きなドラマがあるようだ。

「へえ、どんなのを見てるんですか?」
「えっと、スパイ……いえ、れ、恋愛ドラマとか」

そういったものを好むところは若い女性らしい。きっとポアロで何か食べている時と同じように、いちいち感動して見ているんだろう。簡単に想像できて笑ってしまった。

「ナナシさんも恋愛ものを見るんですね」
「……変ですか?」

何か間違ったか、そんな不安げな表情が一瞬だけ見えたのは、睡眠不足な僕の気のせいか。いいえ、そう答えるとやはりどこか安堵するその顔から目が離せない。一体それにどんな意味がある?と思わせる彼女の所作は相変わらず僕の視線を奪った。

「そういうわけではないんですが……ナナシさんはどんなのが好きなのかと思って」
「……普通の恋愛がいいです」
「…………普通って?」

左手を伸ばして、膝の上に置かれている彼女の白い手を取る。いやらしさを感じさせないように優しく握ると、彼女は焦ったように僕を見てからサッとすぐに前を向いた。

「例えば?」
「っ……普通に、学生時代の同級生と大人になってから偶然再会して、全然意識したことなかったのにスーツ姿がかっこよく見えちゃったりとか……そういう……」

頭の中で思い浮かべたであろう何かのストーリーをなぞるように、彼女はすらすらと口にする。わりとありがちな内容だが、ありすぎて逆に最近のドラマでは見ない。普段の彼女の様子を見ていると何となく、ドラマチックな恋愛をするのだろうなと想像してしまうのだが、本人の希望としてはそうでもないらしかった。

「あなたの同級生というだけでそんな優遇措置、ずるいですね」
「わ、私のことじゃありません、そういうのっていいなって何となく思うだけで」

握り締めた小さな手はさらさらとして触れ心地が良い。着ている上着は2日前と同じだが……本当に懇意だったのなら着るものくらいは替えてやるだろう。出してもらえなかったというのは言葉通り軟禁でもされていたか。すべすべとした肌から、ずっと自由を奪われていたというわけでもなさそうだが。ここにきてようやく冷静になってきた僕だったが、表には出さずに彼女ににこりと笑いかける。

「僕のことは聞いてくれないんですか?」
「…………」
「僕はあんまりこれが理想だっていうのがなくて……強く押されると負けてしまうんですよ」

そもそも恋愛に対して、絶対にこうしたいというような確固たるものがない。こんな職業だからといって「恋愛にうつつを抜かすなんてとんでもない、だからしない」とはっきり決めているわけでもない。自分にとってはそれくらい重要度が低いものだ。自身の邪魔にならない範囲でと思えば相手を蔑ろにすることになり、結局は向こうが耐えきれずに離れて行く。会えば優しいけど、あなたに私は必要ないみたい。大体そんな感じの終わり方だ。
何こいつ、勝手に喋り出した……という心の声がそのまま表情に出ているナナシさんに、僕は笑いを堪えるのが大変だった。安室透をそんな目で見る女性はそうそういないというか、まず人をそんな目で見たらダメだろう。

「次はいつポアロに来ますか?」
「……え?」

ナナシさんはぽかんとして薄く唇を開く。緊張した状態で日常を思い出すと、人は混乱するものだ。さっきから意味のない会話をしているのはそれが狙いということもあったが、僕は彼女とこんなやりとりをするのではなく、ポアロで会いたくなっていた。美味しそうに僕が作った料理を食べて、飽きもせずに幸せそうに瞼を伏せる彼女の顔を見たかった。思わず聞いてしまった僕に、不思議そうだったナナシさんの表情は一転する。そして、

「私の家でいいです……」

まるで敗北したとばかりに肩を落としてそう呟いた。
ポアロにいつ来るかは教えてもらえなかったが、彼女が家に帰りたくなったので、ここまでのようだ。よかった、それじゃあ帰りましょう。そう言ってハンドルから上体を起こし、シートベルトを締めてエンジンを始動させた僕の隣で、彼女は本当に小さな声で「怖すぎる……」と呟いた。

……気持ちが決まるまで待ってあげた優しい男に何を言っているんだ。




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