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18-13 (11-3 と 11-4)



「……赤井さん」

誰も気に留めないような何もない路地裏の手前。彼女が小さく呟いた名前を俺が聞いてしまったことは、彼女にとって不幸でしかない出来事だっただろう。過ぎ去って行く男の背に掛けたであろう静かな声に、引き留める目的はなかったとみえる。その目はただ細くなる通りの奥をじっと熱心に見つめていて、名を呼んだことに意味を持たせるとするなら、別れを惜しむ以外に考えられない。

……FBIが彼女の母校で不穏な動きをしている。来葉峠の一件で後回しになってしまっていたが、その報告は以前から上がってきていた。奴らが妙な動きをしているのは今に始まったことではない。彼女の恩師である大学教授から写真データ等の提供を受けていたようだが、この国では何の捜査権限も持たないFBIが、ただの一般人である彼女のことを調べていることは解せなかった。しかも2日前、来葉峠に奴が姿を現したこのタイミングだ。赤井秀一は仲間にも生存を隠していたのだろうから、まだ奴が生きていると知らないFBIのメンバーも多いことだろう。そんな中、何故彼女と赤井が接点を持っている?赤井と繋がりのある江戸川コナンもまた彼女の知り合いである。実はとうの昔に繋がりを持っていて、彼女が赤井のために動いているのだとしたら……。
冷静に判断しなければならないと頭では分かっていても、やはりその男の名は俺にとっては特別なものであるらしい。その事実も、組織の男に靡く素振りもなかった彼女が憎い男と懇意であるかもしれないという疑惑も、とにかく今は癪に障った。

「ナナシさん」
「っ!?」

こちらに気付きもしなかったのだろう、彼女は持っていたスマホを危うく落としそうになりながら、驚愕の表情で振り向いた。安室さん、と言って固まってしまった彼女に近付いて、通りから路地裏を見る。薄暗く伸びる一本道には既に誰の姿もなかった。

「あ、あの、連絡できなくてすみませんでした……ちょっと色々あって」

さっと視界に入り込み、俺の前に回り込んだ彼女がそう言った。まるで庇うかのように立ち塞がった様を見下ろして、誰かと話をしていたかと問う。彼女は困った顔をして何も答えなかった。この驚きようは突然声を掛けられただけが理由ではないだろう。「もしかして、」と呟いた声は自分で思ったよりも不機嫌を隠せていなかったらしい。見下ろす華奢な肩がぴくりと跳ねるのを眺めながら、ゆっくりと問い掛けるように言葉を紡ぐ。

「ずっとその男と一緒にいた、とか?」
「……い、いえ、なんていうか、そうせざるを得なかったと言いますか、ちょっと部屋から出してもらえなくてですね、私は早く帰りたかったんですけど、……」

珍しく怯えたように肩を震わせる彼女を見て、今自分がどんな顔をしているのか……誰の顔をしているのか分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。部屋から出してもらえなかったと彼女は言った。赤井の潜伏先が工藤邸だという予想は否定されたばかりだ。彼女が今までいたのは別の潜伏先で、この近くにあるということか。閉じ込められた部屋で何をしていたのかすぐにでも確認したかったが……前述の通り、もはや赤井を追う大義名分はない。潜伏先や彼女との関係を知ったところでせいぜいが個人的に動向を監視するくらいしかできないのだ。にも関わらず俺はこの時、これからどうにかしてこの女の口を割らせるのも良いかと思っていた。
赤井の居場所を聞き出して、奴とどのような関係なのか問い詰めて。それからあの夜のことを。そうやって他の男の影を纏いながら、組織の男の名前を知りたがった真意を。もしあの場で組織の男が名を明かしたら、彼女はどうしたのか。組織の男の手を取ったとして、それもあの男のためだった可能性すらある。……一般人の彼女にハニートラップのような真似が出来るはずもないし、FBIが素人を使うはずもないと頭では分かるのに、俺の思考は全く伴ってこなかった。

「具合が悪かったのなら無理をしない方がいいですね。家まで送ります」

首を横に振る彼女との距離は詰まらない。元々が人の心に敏感な女性だ。これから良からぬことが起きると、そう悟っているのだろう。……悟れても逃げ切れないのでは意味がない。己を掻き乱した彼女が別の男に心を許しているかもしれないことが、純粋に腹立たしかったというのもある。ただ、恐らくあの男が絡まなかったら、ここまで彼女を追い詰めてやろうという気にはならなかっただろう。今に彼女は、その名を口にしたことを後悔することになる。それはとても愉快なことに思えた。

送ると言えば慌てた様子で遠ざかって行く彼女の背中を見つめ、ゆっくりと瞬きをする。危機察知能力が高いというべきか……人を気にしないで好きにしているかと思えば思慮深く、他人のことをよく見ている女。
男との歩幅の差を考えて、姿が見えなくなった辺りですぐに横道に逸れる。心理的によく知らない建物には入らず、馴染みのあるところに身を寄せるだろう。追っ手がどこかに行くのを確かめるまでは動きたくないはず。男は目立つ外見であるから、上からであっても探しやすい。焦ったようにバラつく彼女の足音が頭の中で聞こえる。辿る道も、上がった息を整えて冷たいコンクリートに凭れかかる様子も。惑う彼女の姿が鮮明に再生される。近隣で該当するのはあの7階建ての駐車場……。噛み締めた唇はそのまま歪んだ笑みを形作る。

僕から逃げるなんて……いい度胸だ。
俺の中の僕を見つけた彼女。それを追う男は誰なのか……ひとつ言えるのは、これからしようとしていることは、どの男の任務からも遠くかけ離れているということだった。



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