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18-10 (9-2)



いくつもの顔を使い分け諜報活動を行う者は世の中に多数存在するだろう。髪型や化粧、服の好みや異性のタイプ、性格までも切り替え、まるで女優のように複数人を演じ分ける者もいれば、そうでない者もいる。
見目形、声や仕草。相手が誰であっても、男はある程度いつも同じだった。浅黒い肌で、色素の薄い金色の髪、青い目。その特徴的な外見が変装に向かなかったということもあるが、見た目に気を配るよりも、相手が思い込んでいる人物になる方がずっと簡単だ。
反社会的な組織に身を置き時には悪事に手を染める僕と、探偵に弟子入りして小さな喫茶店で働く僕とで、意識して性格を変えているつもりはない。それでも男のことを、ある人は面倒見がよく優しい人間だと言い、またある人は目的のためには手段を選ばない冷酷な人間だと言う。男はそれに対して否定も肯定もせず、同じ顔で笑うだけ。相手が男を誰だと思っているか、そこだけが重要だった。
見る人間がその男を陽の光の下で眺めるか、闇夜に眺めるかで、勝手に見方を変えているだけなのだ。そして一度顔と名前を結びつけてしまえば、そう簡単に男に対する印象が覆ることはない。ミョウジナナシと出会ったのは安室透である。穏やかな時間が流れる昼の喫茶店で、店員と客として。有名な探偵に弟子入りしている、誰にでも親切で面倒見の良い男。彼女もまた同じような印象を抱いているだろう。故に彼女の前で僕は常に安室透だったし、今日もそうだった。僕が意識してそうしているというより、彼女がそう認識しているはずだった。先程彼女は僕に対していつもと違うと言ったが、誰しも二面性のようなものはあり、違和感を持つこと自体はおかしくもない。だが彼女は安室透と、今目の前に立っている男を別の人間だと……別の名前を持つ者だと認識したのだ。安室透と組織の男、バーボン。どちらもひとりの男が演じている役割の一例というだけだが、それでも結びつける事は普通の人間にはできないだろう。

「…………」

何も言わない”僕”を彼女は見上げている。
この状況は一触即発だ。何も僕が組織の一員で悪どいことをしている、なんてことが露見したわけではない。それ以前に目の前の女は組織のことなど知りもしない。だが、予想外に深層に入り込まれて答えられずに焦る自分がいる。戻って来てくださいねと言った彼女は確かに安室透に言ったのだろうが、なら、安室透ではない僕が戻ってきたことを知ってどう思っているのだろうか。そんなくだらないことを考えている場合ではないのだが、すると彼女が薄く唇を開く。僕はそれに釘付けになった。

「なんて……安室さん、今日は別人みたいなんだもの。疲れちゃったんですか?」

しかし、一触即発だと思っていたのはどうやら自分だけだったようだ。彼女は冗談だったとばかりに目を細めて一歩後ろに下がり、肩を竦めた。それをぼんやりと眺めた後、何かが離れて行くような喪失感に己の手を見つめる。繋がっていた指が解けたあとだった。
別人みたい。彼女はそう言った。……本当に「僕」の存在に気付いたわけではない、のだろうか。いや、待て。存在に気付くとはそもそも何だ。組織の男ははじめから存在していない。勿論安室透も、本物の俺が演じている人格に過ぎない。自分まで、まるで安室透と組織の男が本当にいるかのような錯覚に陥ったのは、彼女がそのように認識しているからか……。
何故、自分は混乱しているのだろうと考えて、理由が分かった。「僕」は初めて他人から、安室透とお前は別の人間であると指摘されたのだ。名前など他人が僕を識別するための記号というだけで、自分で安室透とバーボンを演じ分けているつもりはなかったのだから、衝撃でしかない。正体を見破られた、というのとは少し違う。何故か僕はこんな場所でこんな普通の女に、己の中に潜む者の存在が複数あることを再認識させられたのだった。
作られた僕の全ては降谷零の中にもとからあったものであって、名前を与えられなければ表には出てこなかった、いわば抑圧された性質だ。確かに、それは自覚があって自分でも利用している。何故なら一から性格を作り上げるよりもずっと楽だからだ。上手くやれているはずだったが思いのほか、安室透もバーボンも個としての意識を持っているということか……。

陽当たりのいいオープンテラスで彼女を見つめながら、自身が安室透だったら……なんて考えたことを思い返す。もしかするとそういったことの積み重ねが、内側に潜む男を調子づかせてしまったのかもしれない。これはどうにかして抑え込まなければと思う反面、醜い感情が湧いてくる。本物ではないが、偽物でもない……安室透やバーボンならば彼女の側に寄っても許されるのではないかという浅ましい男の欲望が姿を見せた。それは全てを諦めていた降谷零の代わりに、彼らが欲したのかもしれない。

そんなことに気付いてしまってから、彼女がこのバルコニーで誰と話しているつもりなのか気になった。だがそれは尋ねられようはずもない。何せ俺が、僕自身が分かっていないのだから。もっと僕に近付いて。そう言って細い彼女の体を引き寄せる。間近でその顔を見つめて、見つめられて、僕は彼女の前で何になりたいのか、それすら分からなくなっていた。意味ありげに揺らめく美しい虹彩から視線を逸らせない。そうやって含みを持たせるような異性の態度に、焦れるのは幾年ぶりの感情か。

「さっき、僕のことを怖いって言いましたよね」
「……」
「僕も、あなたが怖い」

色づいた形の良い唇に吸い寄せられるようにキスをする。それは謀略でも何でもない、単なる衝動だった。彼女は少しだけ目を見開いて僕を見たが、抵抗せずにやがて瞼を閉じる。温かく血の通った感触は久しく触れていなかったものに思えた。信じられないくらい柔らかな女の唇に自身の瞼が震える。互いの呼吸を一度感じるくらいの短い口づけ。唇が離れ、至近距離でその瞳を覗き込む。何故だか、彼女も同じようにして僕の中を覗いているような気がした。

「……ナナシさん」
「……はい」

もう一回、と再び彼女に顔を寄せると、両手で口を塞がれた挙げ句、それはだめでしょ?と怒られた。呆気なく離れてしまった彼女はそれでも少しだけ照れたような態度で、僕を見る。

「ちゃんと家に帰って寝てくださいね」
「……」
「嘘でもいいからそこは返事してください、心配になるじゃないですか」
「……分かりました」

初めて、他人の許可を得てから嘘をついた。だが嘘でもいいからと言われたから返事をしたのに、僕はまた「帰らなきゃだめ」と怒られた。




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