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18-9 (9-1)


閑静な住宅街に面したホテル。レセプションホールから出られるバルコニーから、落ち着いた色の明かりが家々に灯っているのが見える。夜の少し冷たい風を肌に感じながら端まで歩いて行くと、すぐに背後から誰かがやってくる足音がした。足を止めて振り向き、さっきまで自分が観察していた女の姿を視界に入れる。無事にこちらに気付いて追いかけてきたようだ。パーティーが始まった当初は連れの男から引き剥がす算段をしていたが、早々に自分から離れてくれたので連れ出す手間が省けた。一瞬、こちらを無視して食べ物に夢中になった時はどうするべきかと思ったが。

「こんばんは、ナナシさん」
「安室さん、いらしてたんですね。こんばんは」

難しい話から逃げてきたと言う彼女は僕を見て不思議そうに首を傾げた。飾り気のあまりない黒のワンピースに、髪をひとつに結い上げたシンプルな格好だ。華奢な体のラインが強調されて普段より女性らしさが際立って見えるその服は、近付いてみれば仕立ての良さが分かる。いつもは髪で隠されている首は片手で難なく掴めてしまいそうな細さで、そう明るくもないバルコニーで白い肌が浮かび上がるように映えていた。
彼女の副業については知っていたが、同伴の相手までは情報がなく調べが進んでいなかった。あれから聞き込みをして再度詳しく調べたところ、嶋崎豊との同伴が圧倒的であることが分かった。彼女はもうひとつの仕事について大学の恩師に頼まれていると言っていたが、嶋崎に雇われている可能性はある。一部では愛人なのではという噂もあるようだ。雇われているのだとしたら後妻がない資産家に近付く女を牽制するためか、または何らかの目的があって交流を広げ情報を得ようとしているか。嶋崎家と関係のない場所にもこうして現れるのだから後者の可能性は高い。
まさか八坂の件に絡んでくるとは思わなかったので収穫といえばそうなのだが、今日ずっと彼女を観察していて思ったことがある。……この女、料理を食べているだけだ……。こういった場所で情報を入手しようとするなら、手っ取り早く女であることを武器にして対象に接触するのが一番だろう。だが彼女は出席者と必要以上に会話をしていないし、着ているものも控え目すぎるくらいだ。とても何か狙いがあるようには思えない。しかしここで「そう思えない」という理由で手を引くほど、例の件は軽いものではなかった。
彼女はこちらをまじまじと見つめてくる。

「なんかいつもと違いますよね……?」
「……どこが?」

首を傾げる男に、ちょっと怖いと女が言う。初めて彼女から警戒のような空気を感じて、僕は唇の端を持ち上げた。安室透の忠告を聞いて男に注意するようになったのならばそれは良い。が、近付いた男の頭を彼女はよしよしと撫でたので、僕は対象外のようだ。まあ、目の前の男のことを安室透本人だと思っているのだから当然か。彼女は確かによく気がつく人間らしい。だが様子がおかしいことを察知しても、肝心の中身に気付けなければ何の意味もない。……外は危険がいっぱい、だ。僕は彼女に更に近付いて、その頬に指を伸ばした。

「……?」

見開いた目に男が映っている。指先で撫でた彼女の肌は滑らかで傷ひとつない。自分の黒い指と比べると抜けるように白いその皮膚は簡単に覆ってしまえそうだ。
僕をどう思いますか。薄く笑みを刷いて囁いた唇を彼女が見つめている。その頬がほんのり赤く染まっているのを見て、目を逸らして困る彼女に顔を寄せた。

「……っ」

唇が触れそうな距離で、彼女は顔をやんわりと背ける。それを自分の方へと向かせて、半ば強制的に視線を合わせると、彼女は困った表情をしながらも諦めたのか僕をじっと見つめた。ヒューミント……人間を使って行う諜報活動で性的関係を利用するのは女ばかりではない。相手が男のほうが騙しやすい面も確かにあるが、男でもカラダで相手を籠絡することはある。加えて女は一般に同情的で献身的だ。体の関係がなくとも悲しい身の上話でもしてやれば逃げられることも早々ない。何でもいい、心でも体でも、彼女を繋ぎとめておかなければならない。何の価値もないと判断できるまでは。幸い安室透は嫌われてはいないが、喫茶店の店員と客では弱いだろう。
頬に触れている指に、女性らしい白い指が絡められて目を細める。俯いてしまった彼女の耳に唇を寄せると、僕はこそりと秘め事のように囁いた。

「ナナシさん……今日はここに部屋を取ってるんです。僕の部屋で飲み直しませんか?」

すると彼女は再び顔を上げて僕を見る。そして恥じらうかと思えば、案外あっさりと頷いてこう言った。

「……いいですよ。あなたの名前、教えてくれるなら」

それを聞いた瞬間、笑みを貼り付けていたはずの僕の顔から、その面がずるりと剥がれて落ちる音が聞こえた気がした。
……あなたの名前。
そのコードネームは一般人に告げられる名ではない。苦し紛れに「安室透ですよ」と言おうとして言葉にはならなかった。何故ならその面を被っていたのは安室透ではない。剥がれ落ちた組織の人間を演じていたのは「俺」なのだから。
彼女が冗談を言ったようには見えない。僕が安室透ではないことに、気付いていた?何故、そんなことが。僕は取り繕うことも忘れて彼女の顔を見つめていたが、いくらそうしていてもいつもの彼女が僕を見ているだけで、何も分かりそうになかった。




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