Novel


≫新連載 ≫短編 ≫大人 ≫Top

18-7 (7-3)



無事に戻ってきてくださいね。

彼女はそう言ったが、自分が無事に戻ること自体はおそらく簡単なことだった。組織の裏切り者の指にはめられたパスリング。彼女が乗り込む行き先不明のミステリートレインの終着が彼岸となるか否か、それは僕の手に委ねられていた。バイバイだね、言い聞かせるように言ったあの人の面差しを濃く受け継ぐその人を探し当てたまでは良かったが、彼女は組織から逃げ出した裏切り者。重要人物であろうと連れ戻すという選択肢はなく、発見次第、息の根を止める。それが組織の命令であった。
今回の任務はシェリーを葬り去ることだが、それ自体が難しいことかといえばそうではない。高速で移動する完全なる密室で、戦闘経験もない女を始末する。ただそれだけのことだ。その死を偽装するだけなら大した手間ではないだろう。問題はサポート役として同行する幹部だった。ベルモットの目を欺きつつ、シェリーを殺したと見せかけて保護するとなると難度は跳ね上がる。不審な行動を取ればこれまでの努力が水の泡になりかねない。そして、それ以上の懸念が。

「安室さん、私パンケーキ食べたい」

控えめな声が思考の途中で割って入ってきた。繋いだままの手が遠慮がちに引かれる。適当な答えを返しながら目の前にある聖女を模したオブジェを見つめていると、さっきよりも強い力で引っ張られた。ん、と息む声がしたので、引っ張っているというよりは全力で逃げ出そうとしているようだが……構わずに握っていると、やがて諦めたのか力が抜ける。

ショッピングモールの一番端にある、巨大なステンドグラスとマリア像の前。モールの中にあるとは思えないほど立派な造りだ。彼女ならもっと喜びそうだと思ったのだが、あまり好きではないらしく先程から離れたがっている。いや、この場合は僕から離れたいのか。こういう女性がタイプなのかと尋ねられて、少しだけ首を傾げる。こうしてこの像を間近で見たのは初めてかもしれない。任務や行事で上辺だけの信奉の形をとることはあっても、神や仏の類を信じたことがない己には縁遠いものだった。ただ祈るということに何の意味も見出せない。だからこそ懺悔をしたこともない。自分を見ているのはいつだって自分しかいない。そんな信仰心が皆無の男の中に、ほんの僅かに湧き上がる正体不明の憂心は、やはりこういう場所に少なからず流されているからなのか。過去への贖罪の念か、それともまた人を死に追いやってしまう、いや、殺してしまうかもしれない恐怖なのか。バイバイ、さっきそう言ったナナシ……さんの声とあの人が重なる。似ても似つかないどころか、その唇が紡いだ名前すら違うというのに。思いがけず、たったあれだけの言葉で掻き乱される、今ここに立っている僕の名前は。

安室さん、そう呼ばれてようやく彼女の方に顔を向ける。目が合った瞬間、彼女は何かに気付いたように目を見張ったが、それが何であるのか知りたいとは思わなかった。何も知らないような顔をして戻って来いと言いながら、手を伸ばしてくる女。だが戻らなければならないのは僕ではない、もうあの別れの言葉を聞きたくはないから、本当に戻ってこなくてはならないのは僕ではなく彼女……あの人の面影を持つシェリーなのだ。そう思いながら、僕の頭を撫で回した白い手を捕まえていた。血の通った人の体温を持つ手だ。

「……そんなに困った顔するなら離してくださいよ」
「駄目です」

勝手に手を差し伸べてきて、そんな顔をさせた張本人が今度は離せと言う。この女が例の一件に関わっている可能性は薄い。この辺りで関わりを終わらせてもしばらくはポアロの店員と客という間柄が続くのだろうが、たった今、そんな気はすうっと綺麗に消え失せていった。

……安室さんが、今日はなんか変だから。

そう言う彼女はどこかムッとしている。今こうして恋人でもない男に理由も分からず捕まっていることが不満なのだろう。だが、様子が変だからといって、若い女性が男にそういう態度を取るべきではない、というのは教えてやった方が良い。安室透という作り物を演じる僕だから良かったものの、普通の男は大抵、中身はただの男なのだ。
女の子を騙してる。そんな濡れ衣を着せようとする彼女の目が僕ではない僕をじとりと睨んでいる気がしたが、そんなはずはないだろう。ただし売られた喧嘩は買わなければならないので、僕は彼女の小さな頭をがしりと掴んでやった。悲鳴をあげながら、何てことするんだ、と如実に語る彼女の表情がおかしくて笑ってしまう。
男に不用意に触れるなと言えば、彼女は少し悩む素振りを見せてから、繋いだままの手を離そうとした。その手をしっかりと握り締めて、繋ぎとめる。

「僕はいいんですよ。でも前に言いましたよね?もう少し自覚を持った方がいいって」
「はい……」
「じゃないとこんな風に捕まってしまいますよ」
「す、すみませんでした……」

ナナシさんは返事をしつつも「な、何で?何で安室さんはいいの?」というまさに理不尽に遭遇していますという顔をしていたが、それについては言った僕も同感だった。僕の中身がまったくの別物で、手を繋いでいる男自身に何の意味もないだなどと、彼女は知りもしないのだから。
さっさとこの場所を離れたいらしい彼女に手を引かれるようにして、広場を後にする。女性に引っ張られるという構図はなかなかない。周囲の人の目をこういう形で気にしたのは初めてだった。歩幅の控え目な彼女にすぐに並び、溜息を吐く横顔を上から覗き込む。名前を呼ぶと、こちらを見たナナシさんは少しだけ頬を染めたので、その反応に僕はまた笑った。

僕が偽物だと知れば彼女は、この手を解いてどこに行くのだろうか。




Modoru Main Susumu