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18-6 (7-1)



……バイバイだね、……くん。

涙を堪える小さな子どもはそれでも強がって、彼女に手を振った。それが今生の別れになるとも知らず、否、いま思えば小さな胸のどこかにそんな予感はあったのかもしれない。別れとはそういうものだと理解していたから、見上げた彼女の顔を今でも鮮明に思い出せるのかもしれない。そうでなければ日に日に色褪せていく彼女の記憶を夜毎に手繰り寄せることはしなかったし、懐かしい声が眠れぬその子どもの髪を撫でるようなこともなかっただろう。また会えると根拠もなく純粋に信じていたのならば、その記憶は埋もれて掘り起こせなくなってしまっていただろう。もう会えないと分かっていたからこそ、おそらくは。

ひらりと翻ったスカートが陽の光に反射して目に眩しかった。振り向いた彼女は僕を見て、あ……という顔をしてから、デッキの端からテーブルの方へ戻ってくる。女性の靴がトントンと木の床を踏む音は独特な優しい響きで、テラスを吹き抜ける穏やかな風と相まって心地が良かった。パラソルの下に入って椅子に座り直した彼女は、この辺は親子連れが多いですね、と呟き、ちらりと僕を見る。そして何故かほっとした顔をしながら、食べかけだったサンドイッチに再び手を伸ばした。
香ばしくトーストしたパンにマヨネーズを塗り込み、新鮮なレタス、トマト、脂身を溶かしてカリカリに焼いたベーコン、それに蒸して薄切りにしたターキーをサンドした典型的なクラブハウスサンドイッチだ。店によって様々なアレンジが加わるが、材料で分かるように特に外れがなく手軽に食べられる。彼女がぱくりとサンドイッチを食べて口元を緩めるのを見ながら、店で出すならターキーよりも食べやすいローストチキンにして、甘めのソースを使っても良さそうだ、なんて考えた。

「ナナシさんのご両親は、近くにいらっしゃるんですか?」

女性ひとりが住むには大きな家。大学生の時に一人暮らしをしていて現在は実家に戻っているが、その実家に両親が長期不在ということのようだ。近くにいないと分かっていながら彼女の反応を見て、特におかしな点がないことを確かめる。
……試されている。よく考えてみれば、その思考に一瞬でも囚われた僕は妙だ。調べ上げた彼女の経歴は普通すぎるほど普通で、怪しい部分を探す方が難しい。実際に彼女が見せた不審な行動といえば、あの日忘れ物をしたことと、尾行の一件のみなのだ。暴行事件が解決したことも、さっき嘘を交えて彼女に話したが、とても真相を分かっているようには見えなかった。自分がそう考えるに至った理由は……もっと感覚的な何かではなかっただろうか。探偵として直感が働くのは悪くないことなのかもしれないが、僕は自分のそれをあまり信じていない。
表面上ではたわいもない会話をしながら、ナナシさんが道行く女の人を気にし始めたので、僕は向かいから彼女を覗き込むようにして小声で囁いた。

「……デート」
「え?」
「みたいですよね、今日」
「えっ!……え、ええ……いや、それはどうでしょう?」

ナナシさんはへらりと笑って誤魔化し、アイスティーに手を伸ばした。中の氷がカランと音を立てて、水滴がグラスを伝い落ちていく。……何らかの意図があってこちらを試すような真似をしているのなら、もっと上手く立ち回るはずだ。 無害そうな女の顔を見つめてから、皿に目を落とす。レタスをフォークにさして、もう一度視線を上げると、今度は彼女がじいっと僕を見ていた。彼女はよく何かを見ている。ただ、こうして僕を見ることは少ないように思う。嫌われているという感じはないのだが、どこか関わらないように距離を置かれているような。かっこいいと口では言っても、その実僕を見ていないような。しかしそれはあからさまなものではなく、こうして視線を合わせれば彼女は笑う。安室透を目当てにポアロに通う、純粋に分かりやすい好意はそこにはない。ならばその心の中で安室透はどのようにして存在しているのか……少しだけ気になった。

「…………ナナシさんのことを聞いてもいいですか?」
「なんですか、急に改まって……」
「さすがにバイト中には聞けませんから」
「…………」

え、炎上……と呟いてきょろきょろと辺りを見回し始めたナナシさんを見つめ、僕は笑った。梓さんに何か良くないことを聞いてしまったらしい。
もし僕が本当に安室透という現実にいるひとりの人間だったら……こんな風に女の子と出かけることもあったんだろうなと、普段は考えもしないようなことが頭に浮かぶ。雑念だ。大きな仕事を前に、情けなくもほんの少しだけ揺れているのかもしれない。彼女が今日そうやって僕を見るのは、何かを感じ取っているのか……もともとそういったことに敏感なのだろう。だとしたら、人に言えないことだらけの僕とはあまり相性がよくないかもしれない。そんなことを考えたところで、本当の俺が自身を嘲笑する言葉が聞こえた。……相性なんて、そんなものがあるはずはない……。僕の名前や性質、作り込んだ設定や笑顔は本当の自分を覆い隠す仮面であり、誰かを疑うための道具であり、誰にでも同じでなければならないのだから。彼女とも、仲良くなっておいて損はないという打算の元に動いているに過ぎない。

……そのはずであった。



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