Novel


≫新連載 ≫短編 ≫大人 ≫Top

18-5 (6-3 と 7-1の間)



「わざわざ申し訳ありません」

開口一番そう言って頭を下げてきた部下を横目に、ベンチに腰を下ろした。目の前には大きな天然池と、その向こう側に植えられた樹木から都心の高層ビルが聳えている。周囲にはジョギングコースが整備され、平日の昼間でもウェアに身を包んだ人がそれぞれのペースで体を動かしていた。自分も例に漏れず黒のトレーニングウェア姿だ。人々が走る様子を眺めつつ、背後で僅かに木の軋む音を聞く。

「どうした風見……今日は会う予定じゃなかっただろう」
「ご報告があります」

反対側のベンチに座った風見はやや硬い声でそう切り出した。……現在任せている案件といえば例の会社の専務を監視するくらいだったはずだが。先日、組織の人間として男を社内に呼び出し、捕らえることに成功したばかりだった。左腕の袖を捲ると、あのとき抵抗されて負った軽い打撲痕が微かに残っている。暗闇から何かが飛んできた時は鉛玉かと焦ったものだ。
先般の大規模な投資詐欺グループの一斉検挙の折、グループのメンバーだった男に乞われて逃亡を手引きしたが、後になって当初提示した額を支払えないと言ってきた。粛清しようとすると、男は金のアテがあるといって会社の資金管理部門は自身が独占していることを話し、組織に取り次いでほしいと言ってきた……組織の幹部に説明したシナリオはこうだ。全部嘘だが。男が横領をしていた証拠のデータは4課に協力して入手したもので、幹部を言いくるめるには大いに役に立った。結局、能力的に使えないと判断を下した組織の探り屋は男を始末。最近行動を共にしている女幹部に報告して、この件は終了となった。男は現在、安全な場所に隔離されて4課の取り調べを受けている。今回は組織と民間人の接触を阻んだことよりも、CIAに星を横取りされると騒いでいた彼らに恩を売れたことの方が大きかったと言えよう。……部下のこの態度はまさか、軟禁場所から逃げられたとか?

しかし、風見が話したのは俺がまったく予想していなかった内容だった。

「……尾行できなかった?」

はい、と短く答えた声には落胆が混じった。
ミョウジナナシの尾行を命じたのは1週間ほど前のことだ。例の男と社内で接点のある人間は少ない。他の重役達と連絡調整係の彼女くらいなもので、そう手間でもないと考えて念のため全員の動向を探るようにしておいたのだ。ただ、別にそれで何かが出てくるとは思っていなかった。専務はほとんど社内の人間と会話をしないと、4課のここ半年の捜査で分かっていたからだ。
一向に彼女に関する報告が上がってこないと思っていたら、そんなことになっていたとは。既に男は我々の手にある。風見も、これ以上周りの人間を探っても無意味だというのは分かっていたが、一般女性を尾行できなかった、などということは報告できないと考え、2回目、3回目と尾行を試みさせたという。

「だが結局、全部失敗した……というわけか」
「不甲斐ないことです……1回目は練習の意味も込めて若い捜査員に行かせましたが、失敗したので2回目以降は慣れた人間を使いました」

はじめは不慣れな捜査員に行かせたせいだと思っていたが、次々と失敗してしまい分かったことがあった。尾行はそもそも、最初からできていなかったのだ。不思議なことに、彼女を尾行しようとした次の瞬間にはもう姿が見えなくなっているのだ、と捜査員全員が口を揃えて言う。途中で気付かれて騒がれてしまったとか、撒かれたとかではなく、そもそもあとをつけることができない。……そんなことはあり得ないだろう。尾行のプロといえば探偵のイメージが一般的にあるかもしれないが、警察も尾行張り込みの類は日常的に行なっている。これは少し調べてみる必要がありそうだが……。

「分かった……その件はもういい。あの男も拘束したことだし、後は僕が片付けるよ」

背後で返事をした男が去っていく足音を聞きながら、俺は顔を上げて晴れ渡った青い空を見た。





「安室さん……」

鞄を持って席から立ち上がった彼女は、レジ前にいる梓さんではなくこちらに真っ直ぐやってきた。デザートまで食べ終えて、もう帰るのだろう。だが、彼女の表情はいつもと違う。唇を引き結んで、眉に力も入っている。食べた後はにこにことしていることがほとんどなのに、一体どうしたというのか。怒っているというよりは、ぐっと何かを堪えているような。……身辺調査、尾行、持ち物を漁る……知られたら通報されそうなことを彼女に対してやっているため、内心少しだけ身構える。後ろめたさなんてものは今更感じないが、一連の行動のどれかがバレたのではと思ったからだ。尾行はできなかったというし、何かに気付かれた可能性はある。もちろん、顔には一切出さない。いつものように笑いかけて、どうしたんですかと尋ねた。すると彼女はカウンター越しにずいと前のめりになって、その口を開く。

「新作ケーキ、すっごく美味しかったです……!」

そして興奮したようにそう言った。
…………。
思わず言葉を失って瞬きを数度する間、彼女の表情はきらきらとしたまま変わらなかった。いや、お代わりまでしていたし、2回目を運んで行った時にもとても美味しいという言葉をもらったのだが……2個目を食べてまた言いたくなったらしい。さっきの妙な顔は食べている間に感動がぶり返してきて、必死で押さえ込んでいた顔だったのか。僕は時間差で思わず吹き出してしまったが、彼女がじっと見つめてきたので笑い声をあげる前に堪えた。

「……ありがとうございます、ナナシさん。自信作なので嬉しいです」
「明日もありますか?」
「ええ、ぜひ食べに来てください」

ナナシさんは3回くらい頷いた。なぜそこまで真剣になれるのか分からない。先日エレベーター内で多少なりとも意識させるようなことをしたのに、彼女は今日ここに来てから今まで、それを気にしているような態度は一度も取らなかった。ひょっとして忘れているのでは、と訳のわからない心配をしてしまう。どうして仕掛けた方がそういう雰囲気にならなければならないんだ……彼女は新作ケーキのことしか考えていないというのに。さっき笑うのを我慢した分余計におかしくなってきてしまい、自分の肩が震えるのが分かった。
彼女が会計を済ませて満足そうに出ていったのを見て、拭いていた皿を戻す。シフトは30分前に終わっていた。

「では、僕はお先に失礼しますね」
「安室さん、お疲れ様です」

エプロンを外し、上着をロッカーから取り出して羽織る。梓さんが何か言いたげな含み笑いでこちらを見つめていたので笑顔でスルーした。
そうして店を出て、ポケットに押し込んでいた帽子を目深にかぶり、駐車場には向かわずに反対方向へと足を向ける。そう、彼女が歩いて行った方角だ。ポアロからミョウジナナシの家までは少し距離がある。歩いて15分ほどといったところか。女性の足ならもう少しかかるだろう。直線の道路では十分に距離を取り、曲がり角では彼女が曲がった方をしっかり確認する。何も難しいことのない、通常の尾行だ。一定距離を置きながらゆっくり足を進めて、5分、10分と時間が過ぎた。

「……どういうことだ?」

僕は……俺は思わず声に出して呟いていた。足を止めた場所は大通りから一本裏手に入った、住宅街の立ち並ぶ一角。見つめる先にはひとりで住むには大きな一軒家。調査資料の通りだ。彼女が自宅の玄関から中に入るのを遠目で確認し、取り出したスマホの画面に目を落とす。ポアロを出発してから20分が経っていた。……尾行は終了だ。何の問題もない。

「…………」

しかし問題なく終わったということが問題だった。20分間、彼女は一度も後ろを気にする素振りを見せなかったのだ。公安の捜査員が一度も追えなかったという、その女は。まさかポアロから後をつけられていることに気付いて、わざと尾行を許したとでも?

俺はしばらく動かずに彼女の家の玄関を見つめていたが、曲がり角の向こうから子供達がはしゃぐ声が聞こえると、足早にその場から立ち去った。




Modoru Main Susumu