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18-2 (1-1)



中挽きのコーヒー豆の良い香りが漂っている。ロートに黒い粉を入れてフラスコの中に斜めに置き、アルコールランプの炎がちりちりとガラスの丸底を舐めるのを見つめた。30秒も経たない内に、熱せられて気体となった水が気泡となり、フラスコの底からボールチェーンを伝ってポコポコと沸き上がってくる。それを合図に斜めにしていたロートを真っ直ぐにセットすると、水が沸騰することによって内部で加圧が発生し、お湯がロート側に移動してきた。ぐつぐつと音を立てながら粉を巻き込み、黒い水になってせり上がったそれを竹べらでかき混ぜる。ふわりと広がるのは、淹れる前とはまた違った柔らかさのある深煎りの香り。ガラスの中が何層かに分かれているのを確認してから、ランプの火を遠ざける。もう一度ぐるりと攪拌して、真空になったフラスコ内に再び液体が戻っていくのを眺めた。

「安室さん、探偵のお仕事は大丈夫なの?」
「うん?」

顔を上げると、カウンターの椅子に乗った少年の姿があった。15分くらい前に来て、テーブル席でひとりでアイスコーヒーを飲んでいた子供だ。店内には彼の他に男性客がひとり窓際のテーブル席にいるのみで、それ以外に客はみられない。

「だって、ここでアルバイトしてたら依頼人と会う時間ないんじゃない?」
「大丈夫だよ。今日は夕方には上がるし、それから会うからね」
「ふーん……」

にこりと笑って言い聞かせるように答えると、彼は二、三度瞬きをして安室透がコーヒーを淹れるのをじっと見つめた。
帝丹小学校1年B組、名前は江戸川コナン。小学生、それも1年生がひとりで喫茶店に来るなんてと思うところだが、この子供はすぐ上の階に住んでいる。喫茶ポアロの上階、毛利探偵事務所……毛利小五郎は世間でかなり名の通った探偵だ。元・捜査1課強行犯係の刑事ということもあり、人探しや素行調査を主とする一般の探偵とは一線を画し、凶悪事件に繋がりそうな依頼にも対応している。時たま子供とは思えない顔付きをするこの少年は少しだけ気になる存在だが、身近に有名な探偵がいればこうなるのも無理からぬことなのかもしれない。眼鏡の奥の大きな目は常に好奇心旺盛に周囲を観察している。今度は顔をじーっと見つめられて、俺は苦笑した。

「コナン君、今日は毛利先生はいないのかな?」
「上で新聞読んでるよ。まだ3日目なのに、もう安室さんひとりなんだね」
「ああ……昼までは梓さんもいたんだけど、急用ができたみたいで今は僕だけなんだ」

今では安室と呼ばれるのも慣れたものだ。安室透、それがここでの俺の名前だった。ここで……というか、本職ともうひとつの潜入先以外の日常は、ほとんどその名前で通している。職業は私立探偵で、現在は毛利小五郎の推理に感銘を受け、弟子として近くでアルバイトをしている、という設定だ。本来目立つことはしたくないのだが、わざわざ有名な毛利小五郎の弟子になったのには理由がある。

……組織を裏切り行方不明となっている構成員、シェリーと探偵の毛利小五郎は、繋がりがある可能性がある……。それに連なる情報を同組織の幹部から聞かされたのは、少し前のことだった。組織は裏切り者の誅殺に力を入れており、特に極秘プロジェクトに関わっていたシェリーを見つけ出すことは重要な任務だ。組織に潜り込んでから様々な手立てを用いてコードネームを与えられるにまで上り詰めたが、未だ中枢に入り込むには至らない。ここでシェリーを見つけ出せば、自分の地位は揺るぎないものになるだろう。個人的な感情を持ち込むべきではないが、彼女には思うところもある。今は毛利小五郎やその周辺を探って、少しでも手掛かりを見つけなければ。

できたてのコーヒーを温めたカップに注ぎ、男性客に届けたところで、コナン君があっと声を上げた。見れば小さな彼の体は店の窓の方に向いており、その視線を追うとちらと女性の姿が視界に入る。すぐに通過して見えなくなってしまったが、続いて軋んだ音を立てて店のドアが開いた。ベルがカランと鳴り、ひとりの女性が入ってくる。安室透はこの数日で反射的に出るようになった言葉を例に漏れずに口にした。

「いらっしゃいませ!」
「!!」

入ってきたのは若い女性だった。声こそ出さなかったものの、こちらの顔を見るなり驚いて固まっている。女性のそういった反応は見慣れたものなので、にこりと笑いかけた。……女の反応は少々大袈裟すぎる気もしたが。すると横から、どこか呆れたような子供の声が入ってくる。

「ナナシお姉さん、今度は何に感動してるの?」

コナン君、と名を呼んだ彼女はナナシという名前らしい。窓の外を通った彼女にコナン君が反応したくらいだから仲は良いのだろう。ふたりはしゃがんで話を始めた。

「お姉さん、あのかっこいいお兄さんにときめいちゃったんだ。この胸のドキドキ、何回体験してもいいものだよね……なかなか慣れなくて……はぁ」

ナナシと呼ばれた女はそう言って溜息を吐いた。全部聞こえているのだが、それはいいのか。本人を前にして堂々とそう話しつつ、彼女は照れているわけでも何か含みがある様子もないようだった。席につくなりたらこのスパゲティとアイスティーとケーキをオーダーして、どこか嬉しそうにしている。メニューも見ずに注文したということは何度もここに通っているのだろう。


「いただきます」

レシピは同じとはいえ、作り手が違えば当然味も変わってくる。喫茶店の常連客に料理を提供するのはこの数日で初めてのことだったが、彼女はパスタをフォークに巻き付けて一口食べ、「お、おいしい!」と感動しているようだったのでひとまず安心した。そんな彼女を見たあと、別のテーブルを拭こうと視線を外して、ふと、瞬きをする。

……何だ?

些細な違和感だった。台拭きをテーブルに押し付けたまま、彼女をもう一度見る。だが、おかしなところはない。おかしなところも何も、普通に料理を食べているだけだ。表情が強張っているわけでも、持ち方だとか作法が妙なわけでもない。例えば左利きの人間が右手を使っていたり、自身の染み付いた癖を隠そうとするとき、本人が意識すればそれだけ滲み出てしまうものだが、そういった意図も一切感じられない。なら、違和感は所作そのものか……。テーブルに視線を戻して拭きながら、不自然でない程度に彼女を盗み見る。やはりおかしなところはない。言うなれば……洗練されすぎている。もし子供の時分からそういった教育を受けてきたのなら上品に見えるだとか、美しく見えるのもあり得る話かもしれないが、教え込まれたそれとも少し違うような。何と言い表せば良いのか分からない。年若い、おそらく20代前半であろう女には不釣り合いに思えて、それが違和感の正体だと知った。

「知ってるかな、……っていう会社なんだけど」
「うん、知ってる!学校行く時に近くを通るから」

会話の途中で彼女の勤務先の話題になり、つい数時間前に部下と情報交換をした案件のターゲットと同じ会社だということが分かった。これは僥倖だ。彼女に対して感じたものは気になるが、それが悪い方向に働くものだとは思えない。見た限りでは悪事に手を染めているのはターゲットのみで、従業員はごく普通の会社員のようだが……そこはこれからだ。動くならば早い方がいい。

デザートまでしっかりと平らげた彼女は、会計の際にすごく美味しかったと感想を述べて、嬉しそうに帰って行った。新メニューの話にも顔を輝かせて、その表情は年相応の可愛らしいものだったのだが……なぜあんなに嬉しそうなんだ。彼女が出て行ったドアを見つめて思わず首を傾げた俺に、半眼になったコナン君が微妙な笑いを漏らす。どうやらいつものことらしい。

「じゃ、ボクも帰るね。ごちそうさまでした。バイバイ、安室さん」
「はい、ありがとうございました。毛利先生によろしくね」


男性客も会計を済ませて出て行き、誰もいなくなった店内でスマホに送られてきていた資料に目を通す。対象の男の交友関係、社内で仲の良い人物や通話記録。専務である男を始めとする、上役との連絡は主に1人の女性社員が行なっている。ミョウジナナシか……。読み終えたそれを削除し、着信履歴から1件しかない番号をタップして耳に押し当てる。2コール目で相手が出た。

「……例の件だが、4日後に社内で類似の事件を起こしてくれ。ああ……噂だけでも構わない。……少し事情が変わった」

話が終わるとほぼ同時に店のドアが開いて、素早く通話を終了させる。ドアベルを鳴らして入ってきた2人組の女性客に向かって、俺はにこりと笑い掛けた。



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