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18-1 (1-1数時間前)



時刻は午前10時。始業開始直後のオフィスビル内の休憩スペースに、留まる人間の姿は見られない。時折廊下の向こうからスペースを横切って通り過ぎて行くのは、これから外回りに出掛ける営業マンだ。直前の打ち合わせでも長引いたのか、手にしたスマホをちらと確認して慌てて小走りになる彼は、作業着姿の人間に見向きもしない。
周辺の床をひと拭きする間にスーツ姿の若い男を何人か見送った。モップをスクイザーに入れ濯ぎ始めたところで、またコツコツと誰かが歩く音が響いてくる。絞り器を見つめる低い視界に音の主である磨かれた革靴が通り過ぎ、やがてぴたりと、その足音が止まる。

「君、掃除用具が道を塞いでいるぞ」
「あ、すみません!今動かしますね」

温度があまり感じられない声だった。こちらに向かって注意してきた男に頭を下げ、モップから手を離して床に倒れてしまっている箒を持ち上げる。自分が帽子を目深に被っていることもあって、男と視線が交わることはない。また倒れてしまわないようにしっかり壁に立て掛けて、再びモップを絞るためにスクイザーに近付いた。今しがた注意をしてきた男は上着からスマホを取り出しながら、持っていた鞄を休憩スペースの丸いテーブルの端に置く。座る様子はない。そしてスマホを操作する素振りを見せて、自分の耳に押し当てた。

「組対部からの情報の件ですが」
「ああ……」

ステップ部を踏んでモップの柄を両手で握る。力を込めて引き寄せると、ローラーに挟まれた分厚い繊維から水分がぎゅっと滴り落ちた。平時の清掃が行き届いているのか、大して濁りのない水だ。

「確認を取ったところ間違いありませんでした」
「あの男が組織にコンタクトを取っていたことは僕も確認したよ……それにしてもなぜ4課から君に直接情報が来たんだ?」

絞ったモップを再びぺたりと床に押し付ける。腰を少し落として横にスライドさせながら、スマホに向かって話を続ける男が自身の眼鏡を指で押し上げるのを見た。

「もともと4課では半年前から捜査を進めていたそうです。それを無視して我々の部署が2ヶ月前に同じ場所に潜り込んだせいで話が拗れたようですね」
「なんだ、君が喧嘩を売ったのか。マル暴に突っかかるなんて血の気が多すぎるんじゃないか?」
「ち、違いますよ……私も全てのヤマを把握しているわけではありませんから……何でも、うちの管理官経由の内密の依頼だったとか」

弁解めいた響きで返答しつつも、男は後半、特に声を潜めてそう呟く。内部でも、外部でもおいそれとは話せない内容だ。男が初めてこちらに視線を向けてきた。鋭く冷たい目は意図してそうしているわけではないと前に言っていたか。彼と初めて会った人間ならば、まず眉毛から記憶するだろうという太くて薄めの特徴的な眉と、神経質そうな面立ち。男に応えるように視線を合わせて、先程の言葉に首を傾げる。

「依頼?どこから」
「……ラングレーです」
「なるほど……」

男は、人の気配がないと分かっていても周囲に気を配りながら発言した。ラングレーとは米ホワイトハウス直属の情報機関本部がかつてあった地名で、CIAを表す言葉だ。日本で言うところの、警視庁を桜田門などと呼称するのと同じだろう……こちらはあまり一般的ではないが。現地の人間でもないのにわざわざ別の呼び名を用いる理由は、近年各国の情報機関が有名になりすぎたところにある。

……半年前から追っている男が、犯罪組織と連絡を取り合っているようだ。その情報は、つい先日警視庁公安部所属の風見裕也に伝えられた。持ってきたのは同じく警視庁の組織犯罪対策部……暴力団や違法薬物、銃器の取り締まりを主とする部署で、内部で呼ぶところの4課またはマル暴である。元々は警視庁刑事部の捜査第4課だったものが独立してできた部署のため、そう呼ばれている。
半年前、4課は会社の金を横領してフロント企業に流している男を調査するため、その男が勤務する会社に捜査員を潜入させた。調べるうち、男が4課の把握していない組織とコンタクトを取っていることに気付く。社内でやり取りをしていることが分かっただけでも3回。だが、その時点では横領の証拠を掴む前の段階だったこと、男は組織に上手く取り入ろうと一方的に連絡をしているだけだったことから、関係部署に報告することはしなかった。
それが、潜入捜査を開始して4ヶ月目、つまり今から2ヶ月前。警視庁公安部が、すでに4課が潜っている案件だと知った上で捜査員を送り込んできたのだ。もちろん始めは気付かなかったが、自分達以外にも男を嗅ぎ回る人物をうすうす察知した4課は、今から1週間ほど前に公安の捜査員に社内で接触し、問い詰めた。吐かせたところによると内密の依頼があったのだという。裏にCIAがいると察した4課は、それまで自分達の目的を優先するために報告していなかった情報……組織と男が関与している、ということを、警視庁公安部内でも特殊な位置にいる風見に報告してきたのだ。言い方は子供っぽいが、CIAに持っていかれるくらいなら告げ口して潰してやる、という思いが見てとれる。
その情報を受けて風見が調査したところ、確かに警視庁公安部内で極秘に潜入捜査を行っている者がおり、同じ部署の風見にはCIA絡みであるとあっさり白状した。管理官のヤマだから見逃してくれ、とも。そして、その捜査員もまた、2ヶ月前に男が組織とコンタクトを取っているところを偶然目撃していた。つまり男は組織と少なくとも4回の接触を行なっている。

「それで、対象はどうなってる」
「元からあまり出社しない人物のようですが、最近はほとんど姿を見ないそうです。2ヶ月前に我々の捜査員と接触があり騒ぎになったため警戒しているのかもしれません……その後、類似の事件が社内で起きているのが気に掛かります」
「…………」

廊下の向こうから誰かがやってくる気配がして、体の向きを変える。休憩にやってきたらしいOL風の女性は、風見に何となくこわごわと挨拶をして自販機で飲み物を買い、パタパタと戻っていった。

「それで、どうしますか?」
「……今回は僕が動こう……4課もそのつもりでわざと君に漏らしたんだろうからな」
「しかし、ラングレーがなぜあの男を血眼で調べているのかは不明です。あなたが動くことで組織絡みであると勘付かれてしまうのでは?」
「だとしても、連中にみすみす組織の情報をくれてやることはないさ」

男がどこまで組織と接触しているか、詳細までは分からない。このまま放っておけば男はCIAに捕われ、組織とのパイプをCIAに渡してしまうことになる……だが組織としては、受け入れるに足りる素質の男なのか精査する必要があるためすぐには動かないだろう。この段階で男と接触しているのは末端の構成員のはず。その人物に"組織の幹部"として近付き、自分が引き継ぐと言えば嫌とは言えまい。事前に偶然を装って接触しておくか。

「まずはこちらで情報を集める……連絡を待て」

承知しました、と頷いた風見はスマホを操作して上着にしまうと、俺に背を向けて音も立てずに去って行った。




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