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17-19




ぐるりと視界が回った。それは単に目眩がしたとか酔ったとかではなくて、文字通り私の体が回転したからだった。見覚えのある街並みが勢いよく逆さまにやってきて、上から下へすとんと落ちて一瞬で見えなくなる。自分の足で踏み出したから、そうなることは最初から分かっていた。次に来るであろう衝撃を予想して反射的に全身を強張らせる。……だが、想像していたような痛みはいつまで経っても襲ってこない。それどころか、何の音も聞こえなかった。おかしい。
とぷん、私の体は吸収されるようにその水面に滑り入る。投げ出していたはずの手足は柔らかく冷たい水を掻いて、波立つ水面にきらきらと赤い光が反射した。……夕陽だ。夕焼けが溶ける水面に、沈むこともなく仰向けでぷかぷかと浮いている。

これは……夢。しかもこの街並みは、また昔の。2日連続で見るとは、とうとう過去の亡霊に呪われたか。

ゆらゆらと漂いながら、なんとなく自分が身を投げた橋の上を見つめる。そこには黒い人が立っていて、真下にある川を……私が浮かぶ水面を見つめている。あれは……誰だったか。とてもよく知っている顔なのに、名前が思い出せない。あの男はよくものを知っていて、人当たりがよく、誰にでも頼りにされ、大勢の友人がいた。けれどその裏で別の顔をいくつも持っていて、自身の目的のためならば簡単に顔を変え、関係を持った人間をあっさり捨てるような男だった。あの男の全てを知っているのに、思い出せない……その名前が。声音が。男はどうするでもなく、ただこちらを見下ろしている。どこか呆然としているように感じられるが、それは気のせいだろう。あの男はこんなことで心を乱したりしない。

飛び降りたは良いものの、一向に水に沈む気配のない私はただ浮かんでいるしかなかった。川なのに流されず、水底を見れば蟠る漆黒で奥が見通せず、死んだように澱んでいる。表面上は穏やかで、何も起こらず、とても退屈だ。いっそのことあなたの持つ拳銃で撃ち抜いて終わらせてくれと、男に対してそう思うくらいには。いつまで、こうしていられるのだろう。私は。

水の中の音が聞こえる……。




「っ……!?」

針で突かれたかのような鋭い刺激を肌に感じて、私の体はびくりと跳ね上がった。目を開けると同時に、力強い手に右の手首を掴まれる。おっと、そう緊張感のない声を出したその人。顔が近いことにまず驚いた私は瞬きを数回して、目の前の男を見つめる。辺りは薄暗い。

「……赤井さん……?」
「沖矢ですよ、ナナシさん」

そこにいたのは赤井さん、いや、赤井さんが変装した沖矢さんだった。眼鏡の奥の、開いているのかよくわからない目は相変わらずだ。ゆっくりと掴まれた腕を下ろされて、無意識のうちに右腕を振り上げていたことを知る。そうだ、工藤邸でコナン君と赤井さんの帰りを待っていて、それで……。椅子で寝てしまったところまではたった今思い出したが、私の体はベッドらしき場所に横たわっている。だんだんと状況を理解して、私は息を吐いた。寝転がったまま、男をじろりと睨みつける。

「…………寝てる人に殺気を飛ばさないでください」
「ナナシさんは以前も僕に気付いていましたよね?あれが偶然でないことは分かっていましたが、もう一度試してみたかったもので……驚かせてすみません」

沖矢さんは謝りつつも悪いとは思っていない様子だった。言い方だけは大変丁寧である。むしろ、それだけだ。なんて迷惑な。まあ、思えばあれがきっかけで目をつけられてしまったのかもしれないし、私のミスだったと言えなくもないけど。それにしたってこんなか弱い女子を見る視線じゃない。安室さんもたまに「そんな目で女の子を見ちゃいけません!」っていう視線をぶつけてくるけど、この物騒な人達は私が普通の女だと理解しているのだろうか。溜息を吐いて周囲を見回してみるともうひとつベッドがあり、類さんもそこに寝かされている。物があまりないので空き部屋か何かなのだろう。沖矢さんに視線を戻し、私は起き上がろうとして片肘をシーツについた。

「運んでくださったんですね……ありがとうございます」
「今日はもう寝てください。明日、話をしましょう。まさかお二人が起きて待っているとは思わず……遅くなって申し訳ありませんでした」

私の肩をそっと押し返して、沖矢さんが静かな声で囁く。沖矢さんの声はなんだか眠気を誘うな。そういえば、どうやって声を変えているんだろう。眠気が再びやってきてぼーっと目の前の沖矢さんの眼鏡を見つめる。まさかコレがボイスチェンジャー……?

「…………」
「どうしました?」
「あ、いえ……赤井さんって丁寧に謝れるんだなぁって」
「沖矢です、ナナシさん」
「……というか何で沖矢さん?赤井さんは?」

ぬっと長い腕が伸びてきた。赤井を連呼しすぎたのか、大きな手で頭を鷲掴むようにガシッとやられて少しだけ目が覚める。強めにきた。わりと痛い。……考えもしなかったけど、この人も安室さんみたいな複雑な人だったらどうしよう……僕の前で別の僕の名前出すな、みたいな。正直私は安室さんだけでいっぱいいっぱいである。そう考えて、ふと気になったことを尋ねてみたくなった。わりと寝ぼけている自覚はある。

「……赤井さんは何人いるんですか?」

すると、男は私から手を離して、はぁ……と息を吐いた。諦めの溜息のようだった。

「君は怖いもの知らずだな」

そんなことはない。私はそう思ったが、目の前の男がスッと両目を開いたので、そのグリーンアッシュの瞳に釘付けになる。沖矢さんの姿と声でそんな風に言われるのがとても妙なことに思えて、低くてよく通るあの声が聞きたいと、そう思った。長くてごつごつした指が私の頬に触れる。温かい。そのまま外界から遮るように両方の目を手のひらで覆われて、じわりと血の通う感触が私を眠りへと追いやっていく。さっきまで冷たい場所にいたから、とても心地よくて安心する温度だった。

「さあ、もう休め」
「でも……また……」

夢を見たらどうしよう、その言葉は言えなかった。吸い込まれるように、私の意識は再びどこかへ落ちていった。


最後に顔を合わせた橋の上で、水面を映してきらきらとした彼女の瞳を、今でも覚えている。過去に寄り添うようにそばにいてくれた女は、ある日の夕暮れに姿を消した。

「人当たりがよく、誰にでも頼りにされ、大勢の友人がいる」男は、その友人達に付き添われて橋のうえから眼下の川を見下ろし、呆然としていた。"そういう場合"には言葉を失い、傷つく優しい男だったからだ。それを自分自身がよく理解していたので、そうしたのだ。もう何をしても無駄だというのに、女の後を追おうと欄干に足を掛けるのを、友人達は必死に押し留めた。

男は水面を見下ろして、後から後からとめどなく涙を流したが、それが本当に演技だったのか、もう、覚えていない。




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