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17-16




するりと指を滑らせた安室さんの右頬は、冷たくて少しだけかさついている。乾いてこびり付いた黒っぽい汚れは、触れた感じ泥とかではなかった。微かに残るそれを拭うように親指でなぞり上げると、彼はぴくりと反応して片目を細める。

「自分だって怪我してるじゃないですか……血、付いてますよ?」

銃撃戦でこうはならないので、あの殴り合いが原因だろう。脱いだらもっとひどいことになっていそうだ。けど、今日一度赤井さんの名を口にして失敗している私は慎重に行かなければならないので、さっきのバトルは見ていなかったことにしようと思う。いつも余裕で……例えばあのモールでも、銃を持った大勢の敵を相手にしたり、厄介な人物が来ていると知った時ですら笑みを浮かべていたこの男が、こんな状態だとただ事でない気がしてくる。まあ恐らく、モールの時は私がいたから不安を与えないように意図的にそうしていたのだと思うが……上に立つ人間の器だなぁと感じるのはそういうところだ。
安室さんは視線を横に流して、ごしごしと動く私の指を見つめながら、溜息とともに言葉を吐き出した。

「僕のことは……」
「どうでもよくありません」
「…………、……大元の電源供給が断たれたのに、ゴンドラ内部の混乱は起きていないようです。誰かが緊急用の経路を保持して非常用電源のシャットダウンを回避させたようですね」
「え、ええ……長くは持たないと思いますけど……」

安室さんの言葉の最後に「……赤井と一緒に」という声が聞こえた気がした。さっき赤井さんから受け取るものがあると言って目の前で携帯ジャマーを手に取ってしまったこともあって、誤解されている。ここで否定したらしたで怒りそうだし、もう流しておこう……。
安室さんから手を離した私は曖昧に頷いた。いつもなら問い詰められるところだが、どこからか響いてくるローター音に意識を半分くらい持って行かれている彼からの追及はない。ここは車軸近くでわりと奥まったところにあるし、すぐにどうこうなるわけではなさそうだけど……さっきまでと比べてローター音が少し変わったのが気になる。機体は探るように観覧車にぴたりと張り付いていたはずなのに、今は上昇してホバリング……空中で停止しているようだ。
そうやってふたりで聞き耳を立てた次の瞬間に、今までとは違う銃声が響いてきた。

「……!?」

一点を集中して狙うような、長く連続した発射音が聞こえる。……誰かが標的になっている。安室さんはそれを耳にすると、さっさと爆弾を収納したケースを背負い、こちらに手を伸ばしてきた。

「動くなら今ですね……癪ですが合流します」

彼の大きな手に乗せるように手を重ねるとぎゅっと握られて、力任せに引っ張られる。その素早い行動に口を開く間もない。集中砲火を浴びているのは組織の女か。あれで狙い撃ちにされたら、いかに並外れた身体能力を持っていても逃げ場はない。弾が絶え間なく側壁を貫通する音と、ガラガラと何かが崩れる音が離れた場所から聞こえてくる。さすがに車輪の骨組みを破壊するまでには至らないが、このまま支柱が攻撃され続ければいずれはゴンドラにも危険が及んでしまうだろう。どこからか立ちのぼってきた煙のにおいが鼻をつく。おそらく飛び散った金属片が火花を起こして、漏れ出た油か剥き出しになった可燃物に引火している。……いよいよ大変なことになってきたな。

ふたりは、行く手を阻む瓦礫を前に一旦立ち止まった。安室さんにつられて、迂回路を探して視線を巡らせた時。

「っ……あれって……!」

煙で靄がかかった視界の向こうに、唐突に見覚えのある姿を確認する。……何故、ここに?逃げるように言ったのに。辺りを見回しながら心細げにこちらにやってくるのは、さっきコントロールルームを出てから別れた類さんだった。焦るあまり危なっかしい足取りで今にも転びそうになっている彼女を見て、私は動揺する。するり、安室さんと繋いでいた指は自然と解けた。

「……ナナシさん?」
「安室さん、」

こちらに振り向いた安室さんに見たままを告げようとしたところで、ギギギと嫌な音が頭上から聞こえた。ハッとして咄嗟に後ろに下がると、壁から剥がれたパイプが丸ごと、破片とともに上から落ちてくる。反射的に目を腕で覆った私のすぐ側で、それは大きな音を立てて通路に突き刺さった。もうもうと立ち込める煙と埃で、驚いた顔をした安室さんの顔はすぐに見えなくなる。……ここはしばらく通れそうにない。とりあえずはあっちだ。私はくるりと踵を返して引き返し、類さんの元へと駆け寄った。彼女は私に気付くと、両手を伸ばしてしがみ付くように抱きついてくる。

「ナナシさ……っ……し、死ぬかと思いました……」
「ちょっと類さん!何で来たんですか!?」
「…………」

顔を上げた類さんは困ったような表情で、けれどどこか意を決した瞳で私を見た。そんな顔をされても、困っているのはこっちなんだけど。……まあ、人のことは言えない。さっき「ここはあなたがいていい場所じゃない」と言った安室さんの気持ちが分かって微妙な気分になりつつ、彼女の手をぎゅっと握り締める。

一時は遠のいていた機体の音がすぐそこに迫ってきていた。




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