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17-9



あ、やってしまった。
瞬時にスッと細められた目を見ないようにして、私はくるりと彼に背を向け、素早く手すりを乗り越えて通路の内側に降り立つ。お前こっち見ろよ的な圧を背中に感じるが振り向いたらだめだ。やめろ、女の子にそんな物騒な視線をぶつけるんじゃない。早くあれを回収してコントロールルームに戻らなくては。ぎこちない足取りで黒い物体が置かれた壁に近付き、背伸びをする。パイプの上にあったそれは難なく手に収まった。よかった、これであの爆弾は何とかなる。自分の髪の毛に隠れるようにしてちらっと下の様子を窺うと、やはり金髪の人がじーっとこっちを見ていた。……このまま来た道を逆戻りするのは怖いので、通路を道なりに進んで下におりる階段を探そう。うん、それがいい。

「じゃ、じゃあ私はこれで。ありがとうございました」

私はそう言って安室さんの方を見ることなく真っ直ぐに足を進めた。若干の小走りで。すると、ぱしりと乾いた音がしてから、何かが降ってきたかのような衝撃が通路を伝わって私の足元にやってくる。トン、と音を立てたのは彼の履いている靴だろう。ほぼ同時に、そういう呪いにでもかかってしまったかのように私の足が動かなくなった。本当に振り向きたくなかったのだが、あまりの恐怖に振り向かざるを得ない。誰もいない観覧車(の基部)。暗がりの中、ゆらりとそこに立つ、作業着姿の男。彼の帽子が落とす影の中で、いつもの穏やかなそれとは打って変わった鋭い双眸が開いている。ホラーか。泣くぞ。

「やっぱり、今にしますよ……」

お説教。これ以上は下がらないのではと思うくらい、低い声だった。私は一歩と言わず五歩、後ずさった。
ほんの数秒で私のいる通路に降り立った安室さんは、こんなに綺麗に青筋が浮かぶのかと思うほどのキレ具合でもって私ににこりと微笑んでくる。私が怯えたので笑ってくれたんだろうか。精神攻撃はやめてください。

「あ、あの。どうして赤……あの人と関わると怒るんですか?私は彼のことよく知らないし、そうやって巻き込まれても困ります」
「ナナシさん、僕が怒っている原因が何なのか分かっているようですね」
「こんなにあからさまだったら分かります!」
「……あの男を殺したいほど憎んでいるんです」
「……殺……えっ?」

予想外の言葉が安室さんの口から出てきて、私は思わず動揺してしまった。殺したいほど憎んでいる。それは強い殺意。冗談で言っているようには感じられない。確かに前にも赤井さんの名前を出しただけで周囲の気温を氷点下にしていたが、その正体が殺意だとは思いもよらなかった。警察組織に身を置く彼が平然と言葉にするその意味。もしもそんな機会があるなら、本当に相手を手に掛けてしまうのではないか、そう感じさせるほどに強い気持ち。日本の警察とアメリカの警察だからライバル心があるのかなぁとか、過去に組織のお兄さんとして活動してたらFBIに邪魔をされて怒ってるのかなぁとか、私はそういう想像しかしていなかった。ひくり、自分の頬が引き攣るのが分かる。

「お……おまわりさんでしょ……」
「はい、そうですね」
「そういう過激なのは、やめた方がいいんじゃないですか……」
「…………」

鋭い眼差しに射竦められそうになって、私はもう一歩後ろに下がった。左手でぎゅっと握りしめた黒いケースに、彼の視線が注がれる。

「あなたが赤井に関わってここにいるなら、僕はこのまま見過ごせません」
「違います……赤井さんとはさっき電話で話しただけで、ここにいる理由も知らないし、だから」

行きます、急いでるので。そう言って私がまた一歩下がると、彼はゆっくりと、それは許容できないと頭を左右に振った。その動作で、帽子の下の金色の髪が僅かに揺れる。だめだ、見逃してもらえそうにない。というか何か目的があってここに来たんだろうに、私に構っていていいのか。あと、何度も言うけど私はあなたの恋人でもなんでもないのですが。安室さんが何も言わずにこちらに近付いてきたので、私は慌てて彼に背を向け走り出す。

「っ……待て!」
「嫌です!」

安室さんって余裕があって穏やかに見えるけど去る者追わないタイプじゃないよね。自分が追われるのは苦手そうだけど、逃げるものをとにかく追い掛ける性分のような気がする。なんて無駄なことを考えながら足を懸命に動かして通路の手すりを掴み、スピードをできるだけ落とさないように角を曲がる。そりゃ全力で直線距離をダッシュしたら安室さんに勝てるはずもない。だがここは狭い通路で、ジグザグと入り組んでいる。小回りのきく私の方が有利だ。このまま下に降りていくとコントロールルームにご案内することになってしまうが、それもありだな。爆弾の存在を伝えれば落ち着いてくれるかもしれないし、類さんのことも話さなくては。そういえば安室さんと類さんはたびたび接触していたようだが、彼女のことをどこまで知っているんだろう。
通路をぐるりと一回りして、最初の地点に戻ってきてしまった。どうやら、下へ行く階段はこの通路にはない。安室さんと観覧車でぐるぐる鬼ごっこ……これって笑うところ?何だか一周まわって楽しくなってきたかも。安室さんが走るのをやめたので、私も様子を窺いながらおそるおそる速度を緩める。このまま私だけが走ってしまうとまた一回りして彼に追い付いてしまうからだ。安室さんは青い作業着の上着を脱ぎながら、こちらに聞こえるように長い長い溜息を吐いた。

「おとなしくしてください……乱暴したくないので」

前言を撤回する。ぜんぜん楽しくない。
抵抗の意でツンと顔を目一杯背け、再び彼に背を向ける。足音で彼もまた追い掛けてきたのが分かった。もう一回りしたら、最初に来た梯子のある地点から下に飛び降りよう。だが、何度目かの通路の角を曲がった直後、私は突如視界に入ってきた違和感に息を飲んだ。

「っ……!?」

通路が封鎖されている。いや、そんな大げさなものではない。左側の手すりと、右側の手すりどうしが、ねじれた青い布で結ばれているのだ。これは……安室さんが着ていた上着。ハッと躊躇して足を止めた一瞬で、背後から男が迫ってくる。や、やられた。単に上着の袖が左右の手すりに結ばれているだけだ。確かにそのままは走れないが、くぐって行けば問題なかったのである。けれどまったく予測できていなかった私はうっかり硬直してしまった。あの物騒な言葉は上着を脱いだことから気を逸らすためだったのか。
しかし私はめげない。大急ぎで姿勢を低くして、滑り込むように青い布をくぐり……たかったのだが、伸びてきた長い腕が右側の手すりから上着の片袖をするりと解いた。そしてあろうことか、片方を解いたことで緊張をなくして緩んだそれを、身を屈めようとしていた私のお腹辺りに引っ掛けたのだ。え、嘘!?左側の手すりに結ばれた袖はびくともしない。右の袖は男の手が握っている。ぐい、と引っ張られて、前に進もうとしていた私は反動で後ろにいる安室さんの方へと引き寄せられた。

「きゃあっ!」

何それ、反射神経鬼すぎない!?ていうかこれ、捕まったら締め殺されるのでは……!?力任せの行動に恐ろしい予感が駆け巡った私は、引き寄せられる途中でどうにか片足に力を入れ、体の向きをほんの少し変えることに成功する。そうして腕の中に閉じ込められる前に、安室さんの体を避けるように斜め前に倒れ込んだ。痛っ!膝が痛い。片膝を突き、過去最高速度で体勢を立て直して、彼の横をすり抜ける。
くそ、そんな吐き捨てが背後から聞こえた。くそって言った!こ、怖いよー!

私は半泣きになって脇目も振らず、梯子からジャンプすると元きた道を走って類さんのところに戻った。

「っ……はぁ……はぁ……」

コントロールルームのフロア入口に生還を果たし、背中を撫でてもらいながら私はふるふると震える。
何だこの疲労感。ちょっとお出かけしただけでこれだよ。あり得ない。あいつ何なの……?
お借りした携帯ジャマーを握りしめた私は、安室透に怒りすら覚えていた。




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