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17-1




きらきらとした彼女の瞳を、今でも覚えている。
穏やかな日の午後、いつものようにインクラインで丘の上に登り、美しい街並みを眺めて。今日は上手くできたと言いながら、バスケットの中からサンドイッチを取り出す女。細くて白い指先はあまりにも自分のそれとは違っていて、差し出されたものを受け取らずにそっと彼女の指を握り締めると、変なひとだと笑われた。自分にとっては、そういう存在なのだ。できることといえば壊れないように触れるくらいで、おそらくずっと待っているであろう言葉を言ってやることも、引き寄せることもできない。何でもできるくせに、何もできない。けれどその温かさや穏やかな時間を失いたくなくて、彼女の優しさにつけ込んでいた。

水の流れる音が聞こえる……。



「うっ……」

自分が発した声で、覚醒した。ぼんやりと目を開けると見覚えのある部屋で、馴染みのある肌触りのシーツに頬を押し付けていた。何だかだるいのは寝言を言ったからかもしれない。呟いた内容はよく思い出せなかった。スマホを見ると朝の7時。目覚ましが鳴る前に目が覚めたようだ。もう一度眠る気が起きず、ふらふらと立ち上がって洗面所に向かう。蛇口を捻って冷たい水に指で触れると、さっきまで見ていた夢の断片が蘇ってきた。

「……昔の夢……」

鏡に映る女が喋った。それをぼーっと眺めて、瞬きをひとつする。……これは私だ。流水を両手に掬ってばしゃりと顔にぶつけると、濁っていた意識が次第に正常に戻ってくる。そう、さっきまでのは夢だ。昔の夢。前回見たのは確か、死ぬ間際の夢だったか。過去の夢を見ることは滅多にないので、何だかそれだけで疲れてしまう。水滴がしたたる私の顔……ふと違和感がよぎって自分の輪郭に触れて確かめるが、わりとすべすべしてるな、という感想で終わった。……まだ寝ぼけているらしい。水を止めて、そういえばさっきスマホを見た時にメールが来ていたのを思い出す。ベッドに戻って確認するとメールは安室さんからだった。

「……え?行けない?」

画面には簡潔に「すみませんが今日は行けなくなりました。また連絡します」とあった。他に理由などは書いていない。今日は安室さんと約束があって、ポアロで落ち合う予定だった。例の八坂の伝言を伝えるためだ。モールの事件からは今日で5日になる。話し合いが必要ということにもなっていたが、安室さんのほうが忙しすぎてまだ実現していない。まあ組織の男がモールにいたこともあって、色々と調べることがあったのだろう。
私も少し気になることがある。予定がなくなってしまったことだし動いてみるか。……本当はポアロで伝言を伝えたあと、どこかへ連れて行かれるんじゃないかと思って怖かった、というのはこの際白状しておく。
何とは無しにテレビを点けて、クローゼットから出しておいたベージュのワンピースをベッドに置く。帽子は茶色のチェック柄ベレー帽、足もとは黒のソックスと、あとはレースアップのこげ茶色のブーツでいいだろう。

『……の爆発は、ガス漏れだったと見て当局が捜査しています。また、米花町内連続婦女暴行事件に急展開です。犯人は爆発のあった同ショッピングモール内に拘束された状態で見つかり……「女にハンガーでやられた」などと意味不明な供述をしているということです』

……しかしあの銀髪の男、すごかったなぁ。思わず昔に戻ってしまったかと錯覚するくらい、存在感が邪悪で強烈だった。一般人が触れていい空気じゃなかった。逆にいえば以前はあんなのと平気で対峙していたのだから、普通の精神状態ではなかったんだろう。今この姿で思うのは、やはり平和が一番である。

『次のニュースです。一昨日発生した首都高速道路11号線を走行中の車が高架下の倉庫街で爆発・炎上した事故について、運転手の行方は未だに分かっておらず……』

ワンピースのファスナーを上げて、髪の毛をするりと服の中から出す。当初予定していた時間より早いが出掛けてしまおう。今日はポアロでモーニングを食べてから安室さんと会うつもりだったので、お米を炊いていないし。それにしても、安室さんが暇になる日なんてあるのだろうか。この分だと話し合いも当分先になるのではないかと想像して、それはそれで精神的につらいかもしれないと思う。
たぶん彼が一番疑問に思っているのは、何故八坂や安室さん、そして降谷さんが公安であると私が気付いたのか、ということだろう。正直いえば赤井さんの話を聞いてわりと早い段階でピンときてしまったのだが、それは素直に言ったら駄目なヤツだと思うし、普通の人間ならたとえ話を聞いても気付きはしない。
そして気になるのが、公安だと見抜かれた彼の反応は私の予想よりもずっと落ち着いたものだった。彼は何だかんだで私の周囲にずっといたのだし、私は自分で思っているよりも、自分自身のことを安室さんに対してうまく隠せていなかったのかもしれない。もしくは、誰かが私に情報を漏らしていると考えているのかもしれない。炎上案件に他ならないが、赤井さんとか。……まあ、そこは安室さんに確かめてみないとなんとも言えないな。現役の公安のお兄さんと探り合いだなんて、こっちのブランクを考えてほしいものである。

「……あれ?」

やることを済ませて玄関を出たところで、ポストの投入口の隙間がほんの少し空いていることに気付いた。誰かが勧誘のチラシでも入れて行ったのだろうか。開けてみると、そこには紙に包まれた小さな何か。悪戯かと思いつつ広げてみる。中から出てきたのは黒いUSBだった。包んでいた紙をよく見れば、すごく急いで書いたであろう斜めになった走り書きで、"あなたは僕の言うことを聞かない" と書かれていた。
……え、何これ?僕、ってことはもしかして安室さん?どうせ言うこと聞かないだろ、みたいなニュアンスのようだが、このタイミングで入っているということは、予定をキャンセルされた私が何かするつもりだと予測していたのだろうか。……え?

「…………私だって、安室さんが泣いて頼めば言うこと聞くもん……」

手の中の紙とUSBを見つめながら、私は負け惜しみを言った。




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