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経験値


看板に伝う水滴を、路地に吹く少し強めの風がさらった。雨上がり特有の匂いがコーヒーで温まっていた胸の中にすうっと入り込んできて、自然と空を仰ぎ見る。濃い水色の下に低く流れる雲の動きがはやい。雨はアスファルトの色を少しだけ変えてすぐにあがったようだった。もうすぐ梅雨の季節がやってくる。
足をとめた私の後ろ、扉がキイと軋んだ。

「……通り雨か。止んでよかった」
「そうですね。話し込んでいて気付きませんでした」
「休日に付き合わせて済まなかったな」
「とんでもないです。またお話を聞かせていただきたいです」

降谷さんとの面談について、今後は一回終わるごとに冴木さんにメールで報告することになった。様子を見ながらになるため、全部で何回になるか現時点では不明だ。建前上やらなければならないカウンセリングのわりに毎回報告するというのは徹底しているなと感じたが、上が厳しいというのだから仕方がない。
様子を見ながらといったが面談の終わりには条件がある。ひとつ、私が「問題ない」と判断すること。ふたつめはその報告を受けて冴木さんが承諾すること。つまり実質私が終了のタイミングを決められるということだ。初回で降谷さんの態度が急変したことは気になるが……冴木さんも彼自身に同情こそすれ問題があるとは言っていなかったし、そう長くはかからないだろう。

「……電話が鳴っているようだが」
「え?」

そう言われて耳を澄ますと、聴きなれない電子音がきこえる。鞄の中からだ……自分の。

「あ……これって」

ごそごそと探ってみると音の発生源はあの時渡された黒いスマートフォンだった。表示されているのはBという一文字。初めから唯一登録されていた名前だ。自分の番号が登録されていると言っていたから、これが降谷さんのものなのだろう。本名は不用意に端末に残しておけないにしても、なぜBなんだろうとは思った。普通、仮の名前とするならアルファベット先頭のAなんじゃないかと。
私の反応を見てそれが彼からの電話だと悟ったのか、冴木さんが出てやってくれとばかりに体の向きを変える。そして振り返りざまに言った。

「彼をよろしく頼むよ」
「は、はい、ありがとうございました」

反射的に返事をした私は「よろしく頼む」の意味は深く考えなかった。
点滅し続ける表示に焦って、少し緊張しながら画面に触れる。耳に押し当てて、はい、と小声で応答すると、電話の向こうから低い声が聞こえてきた。

『ミョウジ先生ですか』
「はい……降谷さん?」
『…………』
「…………あ、あの?」

直接聞くのと感じは違うが確かに降谷さんの声だ。前回は短時間しか会話がなかったけれど、特徴的な穏やかさは電話ごしでも失われていない。
シン、と静かになった相手に、もしかして名前を呼んではいけなかったかなと慌てる。が、すぐに『突然電話してしまってすみません』と返ってきた。

「大丈夫です。風が強いので少し聞こえにくいかもしれませんけど」
『今、外ですか?』
「ええ、カフェから出たところなんです」

夜はバーになるこのカフェ。警察関係者がたまに使うと冴木さんが話していたので名前を告げてみると、降谷さんも知っているようだった。それなら……と前置きがあって、微かに彼の息遣いが聞こえる。どうしようかとひと呼吸ぶん迷ったような気配だ。

『……よろしければ直接お話ししませんか?ちょうど近くにいるんです。お渡ししたい資料もあるので』
「はい、構いませんよ。銀行に寄りたいので十五分ほどあとでもいいでしょうか」
『もちろん』

待ち合わせ場所は銀行から数分の距離にある百貨店の入口前になった。手の中で切り替わるスマホの画面を見てほっと息を吐き出す。電話で話すのもいいなぁとこの前の旅行では思ったけど、仕事ではさすがに心躍らない。別の意味では少しドキドキした。


「そういえば……」

銀行で用事を済ませて、目的地へと歩きながら考える。冴木さんは彼について、警察庁に登庁できるのは少ないと言っていた。普通に外で会えるということは、出勤が駄目なのであって外出制限はないんだろう。そして女性との接触を最小限にしなければならないと言っていたのは、おそらくお店で店員さんと会話をしたりとかいうことなら問題はない。恋人や親しい人を作れないという意味だ。私は特例で、降谷さんとの距離が今現在一番近い女ということになる。もし潜入する前から降谷さんに恋人関係の人がいるなら、許可が下りるまでしばらくは会えない……ということになるけれど、それで私と一緒にいるところを見られたら大変な修羅場になってしまうのでは……?でも、そういう関係の人がいる場合は潜入が始まる前に距離を置くものなのだろうか。分からない。
私と降谷さんがこうして外で会うのは褒められたことではないというか、降谷さんに恋人がいようがいまいが本来やったらいけないことだけれど、彼の状況では仕方がない。今後もスムーズに進むならばこちらが合わせることも必要になってくる。

「……ん?」

百貨店はすぐそこだ。いつもこの辺りは比較的静かなのだが、なんだか大通りの方角が騒がしい……。遠くにちょっとだけ見える道路をパトカーが通り過ぎた。事故か何かだろうか。
そうして前方だけを気にして歩いていた私は、横にある細い路地から人が出てきたことに気付かなかった。

「っ!」
「わっ!?」
「……気をつけろ!」

相手がギリギリで立ち止まったため衝突は免れる。スーツ姿のビジネスマン風の男の人だった。反射的に出た言葉だろうが、怒鳴られてびっくりしてしまう。

「す、すみません……」

慌てて頭を下げた私に見向きもせずに男は足早に立ち去っていく。あちらは駅の方向だから急いでいるのかもしれない。ぼんやりしていた私が悪いのだが、何だかなと思って眉間に皺が寄った。はぁ、とため息をひとつ吐いて、通りに向き直る。

「おっと」
「!?」

目の前に突然人が現れて、視界が白っぽい色でいっぱいになった。またなの!?今度は肩を掴まれて体を支えられる。いくらなんでも鈍すぎるだろう。この人も同じ道から急に出てきた様子だった。私が謝る前に「すみません」と言ってくれたため、こちらもペコペコと謝罪する。



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