Novel


≫長編 ≫短編 ≫大人 ≫Top

経験値



「お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。ごめんなさい、私がぼんやり歩いてて……」
「こちらこそすみませんでした。お買い物ですか?ここから離れた方がいいかもしれませんよ」
「……何かあったんですか?」

騒がしい様子だった大通り。急いで走ってきた人。考えてみればこの路地は駅への近道でも何でもない。なぜ離れなければならないのだろうと不安になって尋ねると、男は眉を下げた。顔は若くて、かっちりした白シャツとズボンで社会人ぽい格好をしているけれど、学生にも見える。

「殺人事件です。あっちには行かない方がいいですよ」
「さ、殺人……」

それは予想外の答えだった。現場は大通り沿いにある美術館で、刺されたのは警備員。現在、美術館を封鎖して容疑者を閉じ込めている。それでなぜ近付かない方が良いのかというと、犯人が爆弾を所持しているという噂が広まっているためだった。警察の車両も続々と集まってきている。

「それじゃ中にいる人は……」
「大丈夫。一般客は避難していて中にはいません」
「そうなんですか……詳しいですね。もしかして中から逃げてきた方?」

男はきょとんと目を丸くしたあと、まあね、と言って笑った。やっぱり、どこか幼さのある笑顔だと思った。体を離し、何かに気付いたように視線を別の方へ向けて、すぐにまたこちらを見る。気になってその顔をじっと見ていると、男は自分の顔を片手で覆った。仮面をかぶるみたいな動作がどうしてか様になる。

「失礼、用事があるもので」
「あ、はい、引き留めてしまってすみません」

そこからの身のこなしはとても素早かった。男は流れるように身を翻して、あっという間に私の視界から消え去ってしまう。残された私は男がいた場所を見つめて、ぽかんとするしかない。いや、もちろん急に消えたわけではない。走り去って行ったのだ。なのにどうしてだろう、この狐につままれたとでもいうような感覚……。

「ミョウジ先生!」
「ひっ、はい!?」

後ろから突然呼ばれてビクッと肩が跳ねる。今日は何回も驚きすぎだ。
振り向くと、待ち合わせをしていた降谷さんがそこにいた。消えた男に気を取られていたせいで気付かなかったが、今まさに駆け寄ってきたという雰囲気だ。服装は前回と同じグレーのスーツ。あの時と違うことといえば、眉間に深く刻まれた皺。

「降谷さん……」
「大丈夫ですか。あの男に何かされましたか?」
「え!?」

もしかしたら体を支えられていたところを見られたのかもしれない。今にも肩をガシッとやってきそうな前のめりの雰囲気に気圧されつつ、ぶんぶんと頭を横に振る。

「違うんです。ぶつかりそうになってしまって……向こうで殺人事件があったんですよね?さっきの人に聞きました」

その時の慌てていた空気が伝わっただろうか、降谷さんは私を見つめたまま瞬きをひとつして「分かりました」と頷いてくれた。百貨店はまだ先だ。事件が起きたので銀行からのルートを予測して迎えに来てくれたのだろう。

「美術館で事件だなんて、怖いですね」
「さっき警察が突入したようなので、じきに犯人も確保されるでしょう」

……意外というか、こういうものなのかなと思った。この人のことはまだよく知らないけれど、事件があったら飛んでいきそうなイメージだったのだ。なんとなく。もし私のせいで行けないのだとしたら申し訳ないので、一応尋ねてみることにする。背がすごく高いなぁと思いながら改めて彼を見上げた。

「現場に行かなくて大丈夫なんですか?」
「一応、自宅待機を命じられている身ですから」

あ、そうか。
それに普通の警察官ではない彼が現場に行ったところで捜査することもないのだろう。納得していると、スーツを着た長い腕が伸びてきた。

「合流できて良かった。ゆっくり話している場合でもなくなってしまいましたね……駅までお送りします」

まるで事件のあった大通りから遠ざけるように、さっと腰に回された腕が私の進行方向を変える。いきなり男の人にそんなことをされて普通なら驚くところだが、あまりにも自然で数秒は気付かなかった。エスコートされるみたいに数歩進んで、自分に触れている上質そうなスーツの感触に我に返る。

「え、あの……」

ほぼ真上からまじまじと見られているような視線を感じて、思わず体を硬直させた。大きな黒の革靴と、それに比べたら随分と小柄な女物の靴。濡れたアスファルトにぴたりと止まって並ぶ。
思い出したようにドキドキし始めた心臓を必死で宥めていると、あ、という声が上から聞こえた。同時にするりと離れていく腕。おそるおそる顔をあげて、困った顔をした降谷さんの視線とぶつかる。

「最近は人と会う機会がほとんどなかったものですから……距離感がおかしくてすみません」
「えっ!い、いえ、私の方こそ」

動揺して意味の分からない返事をしてしまう。
はじめの方に目を通した犯罪行為略歴にハニートラップまがいのことも書いてあった気がするし、おそらく潜入中は普通の人付き合いはできなかっただろうから、彼の言うとおり感覚が麻痺していることもあるのかもしれない。
すぐに私から離れた降谷さんは前髪をくしゃりと掻き上げ、小さく溜息を吐いた。細い金色の髪は褐色の長い指によく映える。見た目より硬いのか、元からセットしてあったのか、手を戻してもやや癖のついたままの前髪。
外見の良さもさることながら、若い人がやれば滑稽に映りそうな動作もすごく自然で。面談の時は仕事中だという意識が先にあったけれど、こうやって見ると「素敵な人だなぁ……」と感嘆しそうになってしまう。さすがに変な女すぎるので何とか思いとどまったが。

駅に向かってふたりで歩きながら、たまにグレーのスーツをちらりと視界に入れて考える。
本当なら出世まっしぐらな警察官僚で、綺麗な奥さんがいて……そういう人なんだろう。なぜ、約束された立場にいながら危険な場所に身を置いていたのか気になった。初回では何かを企んでいると思ったけど……こんな人が私ごときに何を企む必要があるというのか。

改札前までやってくると、降谷さんは持っていた鞄から一枚の紙を取り出す。

「これ、この前のチェックシートです」
「ありがとうございます。もしかして渡したかった資料ってこれですか?もっとゆっくり書いてくださって良かったのに」

時間がないからと、前回のシートを適当に書いたと話した降谷さん。まだ次回の日程も決まっていないのだから、余裕がある時に書いて次回渡してくれれば良かったのに。すると降谷さんは瞼を伏せて今これを手渡したわけを述べた。「面談の際に渡せば先生がその場でチェックしますよね。そうするとお話しする時間が少なくなると思ったので……」と。
どこか窺い見るように覗き込まれてドキッとする。心が動いたのはかっこいいから、という理由ばかりではない。カウンセラーとして、相手にそう言ってもらえるのは純粋に嬉しいのだ。最初は信頼関係を築くのは難しそうだなと思っていたので喜びは余計に大きい。

「また……お会いできるのを楽しみにしていますね」

ホームに電車が滑り込んでくる。
パスケースを手に振り向いた私に、降谷さんがそう言った。
その表情は入口から差し込む逆光でよく見えなかったけれど、きっと穏やかに微笑んでいるのだろうと思った。



Modoru Main Susumu