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経験値


「君に頼んで正解だったよ」

笑うとできる口元の皺が月日を感じさせる。と同時に、人を見透かすかのような目は何年経っても変わらないなぁとも思った。
今回の仕事の依頼主である壮年の男性。年齢は五十を過ぎているはずだ。名を冴木さんという。ボタンを留めずにスーツを着崩した格好だけ見ればこじんまりとしたカフェに溶け込んでいるように思えるが、謎のオーラで結局目立っている。にこにこと穏やかな表情を浮かべる男はとても警察庁の偉い人には見えない。確か、上から数えた方が早いくらいの地位にあると前に聞いた。そのとき役職を調べてみたのだが組織が複雑すぎてよく分からず、とりあえず偉い人だという認識である。
降谷さんはこの人に恩があるからカウンセリングを受けることになった……という話だったけれど、それがなくてもおそらく若い警察官ならば逆らえないのではないかと思う。この人と知り合ったのは私がまだ十代の頃だったが、その時すでにたくさんの部下がいた。

「でも、まだ一回目ですから」
「いやいや、彼が君のことをとても褒めていたんだ……これからもよろしく頼むよ」

冴木さんはすっかり安心した様子で私に頭を下げてきた。面談の翌日、降谷さんに警察庁の廊下で呼び止められたのだという。建物内で遭遇する機会が極端に少ないこともあるが、立場的にも滅多なことであちらから声を掛けてくることはないので、はじめは何事かと思ったそうだ。ふたりが私について会話しているところを想像してヒヤリとしてしまった。わかっていたつもりだったけど、今更ながらとんでもない人達に関わってしまったような……。

「出来る限り頑張らせていただきます」

私は曖昧に微笑むことしかできない。確かに、ファーストコンタクトとしては失敗ではなかった。けど、短時間だったし特筆して褒められるような成果もない。依頼された側としては喜んでくれるのは嬉しいけれど。
おそらく降谷さんが先手を打ったのだ。……渋々受けたカウンセリング。そこで「先生」がとても素晴らしかったと冴木さんに告げる。冴木さんは乗り気でなかった降谷さんの心が動いたことに喜び、私に礼を言う。万が一、私が初回の仕事で「辞めたいなあ」と思ってもこの場では言い出せなくなるだろう。「この面談を終わらせない」という謎の思惑が感じられる。私としてはそんなことをされなくてももちろん最後までやりきるつもりだ。
カチャリ、白いカップがソーサーに触れて、コーヒーが微かに波をたてる。

「実を言うと不安はあったんだ。私の頼みということでようやく言うことを聞かせたが……彼は一般的な規格からは外れているし、彼自身もそれをよく理解している」
「……優しそうな方でした、とても」
「そうだろう。表面上は穏やかで理性的な男なんだ。ただ、難儀な部分もあってね。他者を介入させないとでも言うのかな……元からそういうところがあったんだが、潜入捜査を終えてからはいっそう顕著になった」
「カウンセリングは……自分には必要ないと思っていたんですね」

それはあのアンケートと、部屋に入ってきた降谷さんを見たらすぐにわかった。カウンセリングなんてと見下しているとか、そういうことではない。ただ純粋に自分には必要ないのだと、彼の中ではすでにそう決まっている様子だった。一見すれば他の人間がやらないような難しい潜入捜査を終えて慢心しているかのようだが、それも違う。まだうまく彼のことを言い表すことはできないけど、とにかく普通の人と同じだと思わない方が良いだろう。

「いくら彼が拒んでも、警察組織に戻ってきたからにはやらなければならないことはたくさんある。制約が多くてな……彼には色々と我慢を強いているんだ」

ただでさえ異例の潜入捜査だ。警視庁の現場の人間が潜ることはあっても、彼のような立場の警察官がそのような危険を冒した例は過去にない。
潜入明けから降谷さんの行動は制限されていた。登庁は月に数度、それ以外は自宅で業務。休養させる、という名目で、その実は監視のようなものだ。

「それだけ強大な組織なんだ。彼が潜っていたところはね。しばらく人との接触は最小限にしなければならないし……もちろん女性も」

上層部の人間にも、彼の人となりを知らずにとにかく縛り付けておけと言う者もいる。長い潜入であちら側に取り込まれてしまうこともあるからだとか。降谷さんも当然そう思われていると承知で従っているのだろうが、顔を合わせた時にそんな雰囲気はまったく感じなかった。

「…………」
「ああ、驚かせたか。すまない」
「いえ。難しい立場にあるのは分かりました」

本来ならば出世間違いなしの公安のエリート。潜入すると出世の道的には有利になるのか、外れてしまうのかは分からないけれど、ほとんど登庁もできないのでは仕事も限られる。危険な役目を全うした人に対して、少しひどいのではと素人の私は考えてしまうが……まあ長い間ひとりで潜入してたそうだから、それくらいでどうこうなったりはしないのだろうけど。
何かできることといえば、彼の相談員として心に寄り添うことだ。普通だったら一回会っただけで「こうしよう」とは決めないのだが、やるぞという気持ちが湧いてきた。冴木さんの話を聞いたこともあるけど……実はこの仕事、報酬がかなり良い。

前述の通り、私はプロのカウンセラーではなく、本業は別にある。叔母が小さな施設を運営していた関係で、昔から子供たちの話を聞く機会が多かったため相談員の真似事をしていたのだが、それがきっかけで出会ったのが冴木さんだった。カウンセラーという肩書には基準がない。なんとかアドバイザーとか、コンサルタント等と一緒で、誰にでも名乗れるものだ。だからどこからをプロとするかは個人の見解によるが、専門的な資格を有さずにボランティアでやっていた私は明らかにプロではないだろう。そういう人材は世の中にたくさんいる。でも、経歴も怪しいような人間を潜入捜査官のカウンセラーにいきなり抜擢することはできない。そこで私だったというわけだ。

「そう言ってくれて安心したよ。次の予定だが、最初に入り口で受け取った紙に番号があっただろう。そこに電話してもらえれば、事務の方で彼の予定を調整してくれる」
「それなんですけど、降谷さんから携帯を貸していただいたんです。直接連絡をとっても大丈夫でしょうか」
「……え?」
「あ……たくさんスマホを持っているとかで、面談の時に」
「…………そうなのか。なるほど」
「え?何かあるんでしょうか?」
「いや、大丈夫だ。直接連絡してくれて構わない」

正直に話してはダメだったかもしれない。意外そうに目を大きくした冴木さんを見て私は慌てたが、彼は「いいんだ」と言って表情を緩めた。どこか含みのある笑みだ。不思議に思うも、彼が先に尋ねてくる。

「ところで、君達の近況が聞きたいな」
「はい、みんな元気にしてますよ」

きっかけは施設に出入りしていた子供が事件に巻き込まれたことだった。制服を着ていないおまわりさんをテレビドラマ以外で見たのは初めてで、すごくドキドキしたのを覚えている。ちょくちょく仕事を頼まれていたこともあるが、何年経ってもこうして気にしてくれるおまわりさんの存在はありがたく、心強いものだ。
私が最近あった子供達の中の「事件」を話すあいだ、彼は先ほど見せた笑みをずっと浮かべて私を見つめていた。



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