このあと金稼ぎに奔走した
【リクエスト内容(要約)】
指定の夢主設定で、共有した創作設定をもとにした夢小説。
◎界獣共の揺籃歌、錯視とケーキ、天満月に荼毒と同世界観です
◎固有名詞をニュアンスで読んでいただければこれだけでも読めます
――寒い。
寒くて堪らない。
満身から根刮ぎ体温を奪われて最早歯の根も合わない。ずぶ濡れて針のごとく尖った前髪から垂れ落ちる雫の一滴一滴が、凍みるように痛い。
それでも、打ち上げられた先が日に焼かれた砂の上であったことが、まだ彼にとって幸いした。凍えて強張った指先を砂の中に突き込むと染み入るような熱が肌に伝わってくる。
そうして暫く、ひたすらに氷染みた自身の身体を地熱で温め続けた。温もりが蘇るごと、死を目前にして麻痺しきっていたありとあらゆる心までもがその身中に舞い戻ってくる。
恐怖。
苦痛。
悲哀。
――悔恨。
概念としてだけは知っていたそれらがいよいよもって自らの情動となって、肝を食い破るように暴れ回っている。
それでいてなお、彼はただ無力だった。
なにもできることはなかった。
砂に伏して、海水混じりの涙を漏らし続けること以外には、なにも。
情けない。憤りさえ覚えるほど。どろどろとしたどす黒いものが腹の奥底で塒を巻いて、吐き気がする。道理を知らぬ子供のように泣き喚くことしかできないでいる自身が疎ましくて、とにかくなにかにあたりたくて砂を握ったが、弛緩した拳にそれ以上の力は入らなかった。
結局、砂地に身を埋めながらどうすることもできずにまた無為な呼吸を繰り返す。ついさっきまで彼を荒々しく揉みくちゃにしたくせ、それを忘れたように極めて穏やかにさざめく潮騒が耳をついて、煩わしさに眉間に皺を刻む。あの波の音が、彼には己を冷笑うざわめきのようにも聞こえた。
手繰っても手繰っても、指の隙間から細かな砂はさらさらと零れていく。
砂の上に伏しながらに、彼は思う。
この世に生まれ出でたこと。それ自体が罪なのだろうか。この身が積み重ねてきたという罪過とは、罪なき者を犠牲にしてさえ贖いきれぬほど重い鎖が巻きつけられたものなのだろうか。
広大なる青き海――アスールウェテルの上を独りきり漂いながら幾度も繰り返した自問自答を、わかりきった答えを己の中に見つめながらも往生際悪く繰り返す。
この世に生まれ出でたこと。それ自体がきっと罪であった。己が身で積み重ねた罪過はなにをしても贖いきれるものではなく、与えられるままに愛を貪り胡坐を掻き続けるべきでは、きっとなかったのだ。
そうとわかってまで価値のない肺を留処もなく動かし続けているのは、もう命をかなぐり捨てることも赦されないからだ。
生きろ、と。
そう言われてしまったから。
例え罪であろうとも、世の理から叛こうとも。生きろと請われたならば。無垢な祈りを捧げられたならば。
「……まだ、しねない」
きっと、生きねばならないのだろう。
つらくとも、寂しくとも。
愛を失おうとも。
こんなもの、贖罪にも値しない。ただ己を慰めるための浅ましい自己満足だと知っていて、なお――生きてゆかねばならないのだろう。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
果てなき旅の途上に、活発な印象を受ける外はねの桃色髪を心なしか萎れさせながら、セリニは内心独り言つ。旅というものは、とにもかくにも金がかかるものだ、と。
日々の食事代、宿の宿泊費、装備の維持費……――、旅に関わる支出をいちいち挙げていけば枚挙に遑がない。文明を生きる人間たるもの、経済活動から完全に離れて生きていくのは難しい。
その旅の目的がレイの掲げる界獣共の殲滅≠ニいう途方もないものであれば、なおさらのこと。かかる銭は考えたくもない。
だがしかし、セリニとレイはどうしてもその金について頭を悩ませなくてはならない瀬戸際にある。――つまり、どういうことかというと、ふたりの路銀が尽きたのである。
別にばかすかと無駄遣いをしていたわけではない。間の悪いことに出費が重なったのだ。銭にがめつい領主が立てた関所を通るにも、度重なる戦闘での傷を癒すためにも、金というやつはなにかと要り様だ。特にここ最近はレイが「セリニも自分で身を守ることぐらいはできるように」と考えて円月輪を買い与え、暇を見つけては彼女に戦闘訓練を課すようになったから、余計に薬草代が嵩んでいた。
旅路を共にしているということで金のやり取りの煩わしさを減らすためにレイとセリニは財布を同一にして、その管理はセリニが行っていたのだが、彼女自身、最近は支出が増えていく一方だからそろそろ節約も考えなければならないなとは考えていた。
だけど、気付いたらいつの間にか財布の中身がすっかすかになっていた。
「そういえば、今どのくらい残ってるんだろう」とお財布を開いたら小銭とごみしか入ってなかった。本当にびっくりした。
「お財布に穴でも開いちゃってたのかな?」と思って一生懸命財布の底を弄ってみたが、彼女のやや大ぶりなガマ口財布は穴ひとつなく、新品同然に機能しているということを知れただけだった。
どうしても諦めがつかずに財布を天に掲げて横から見ても下から見ても、やはり穴などどこにもない。持ち主の家計をしっかり守ってくれていて、とっても偉いね。そしてこの優秀な財布は己の頑丈さを示すと同時に、現状の財政難にかかる罪は持ち主たちのガバガバ金銭感覚にしかないとはっきり知らしめてくれた。
「……ついこの間、大きい実入りがあったからって、油断してたのがよくなかったんだわ」
「ああ、この間の討伐依頼か」
「絶対そうだ……。ちょっとテンション上がっちゃって、暫く家計簿つけるの忘れてたから……」
「確かに、あれは中々旨味のある依頼だったな」
「ちょ、ちょっと黙って……」
真横でズレた相槌を入れられるごと頭痛が増して仕方がない。
当然、猛烈に悔やんでも失った銭が返ることはない。それにしても隣でこんなにキュートな女の子が目眩も起こさんばかりに狼狽えているのに、なにを呑気に思い出話に興じようとしているのか、この男は。
そもそも、セリニはこういった細かい数字の遣り繰りは不得手だ。彼女以上にレイのほうがより一般常識に疎く金に対する危機感が薄いから必然的にセリニが管理する破目になってしまっただけ。やや世間知らずな自覚のある彼女にとっても、本来金の工面は小難しく取っつきにくいものだ。
――だから、気を付けていたつもりだったのに……!
遅蒔きながらも芽生えた危機感に、セリニは青褪めて呻く。
「稼がなきゃ……! あたしたち、このままじゃ飢え死にだわ!」
「そうか? 向こうひと月程度は飲まず食わずでも持ち堪えられるだろう」
慌てふためくセリニの横でレイは相も変わらずなんとも呑気な構えでいる。彼の他意なく本心からであろう言葉に、セリニは深々とため息を吐いてみせた。
「あのねえ、レイ。何度も言ってるけど、普通の人間はあんたみたいに頑丈じゃないのよ。あたしみたいに孅い女の子なんかは、水がなかったらせいぜい一週間かそこらで死んじゃうわけ」
「そうなのか」
「そーなの! ほんっと、あんたって……」
セリニはぼやきながら隣に立つ大男をねめつける。
白く豊かにうねる長髪をポニーテールに結い上げて黒尽くめの怪しげな恰好をした、見た目からして浮世離れしたこの男。
「自分の正体が周りの人たちにバレたりしたら大騒ぎだっていう自覚、ある? あたしの前以外では、そういう素っ頓狂なこと言っちゃ駄目だからね?」
「心得ている」
「ほんとにい……?」
堂々と頷いてみせた彼に、それでもセリニは疑念の眼差しを絶えず送り続ける。
レイは人ではない。他者に秘めた名をアシュレイ・フィアスと言い、――その正体は界獣の特異個体 と呼ばれる異形の者だ。
一見して人外とは思えぬ姿をした彼は、それだけあってかつては人として暮らしていた過去もあったという。しかし、それもほんの短い間でしかなかったようで、結局ほとんどの時間を他者と交わらぬように生きてきたという彼に良心はあっても社会通念の概念はやや薄い。
なんせ人外暮らしが長すぎて人が持って産まれ、また生活の中で培われていくはずの三大欲求さえどこかに放っぽり出してきてしまったような男なのだ。多くを期待するのはむしろ酷というものだろう。
とはいえ、こうしてずっと旅路を共にしてきた仲間ではあるのだから、セリニの状態にくらい少しは気を遣ってほしいものだが……。
大きな団栗眼をきゅっと眇めるセリニにレイが気付いていたかどうかは定かではないが、彼はふと前方を指し示して彼女の気を逸らすひと言を放った。
「しかし、そう思い詰めることもなかろう。村が見えるぞ」
「えっ、ほんと?」
言われてセリニもぱっと顔を前に向けたが、彼女の目にはまだ空と海を背負う地平にぽつんと転がる豆粒ほどのものしか見えない。村と言われれば村かもしれないと思う程度だ。
だが、そんな彼女とは違ってレイにはその豆の形がある程度ははっきりと見えているらしい。
「さすがにこの距離からでは判然としないが……、あの規模であれば便利屋組合もあるだろう」
「やった! 早く行こっ!」
冒険者の収入源と言えば、ハウスから受諾する依頼の存在は欠かせない。先行き不透明な現状に希望の光明が差す。天の助けとばかりに、セリニは喜びに諸手を振り上げた。その手になけなしの財産を握り締めていたのも忘れて。
「あっ」
「む、」
――財布は飛んだ。
セリニの手を離れて、高く高く飛翔した。
遮るものなどなく広がる灰空に飛び上がる財布。過る黒い影。巨大な鳥の姿……。
その頑丈さで家計を守り通さんとした財布はとってもお利口さんだったが、当の持ち主であるセリニは迂闊なお茶目さんだったので、ふたりのなけなしの財産は石鹸玉みたいに空まで飛んで食われて消えた。
悠々と宙を旋回する巨鳥に対してなす術はない。ふたりは鳥が飛び去り見えなくなるまでその姿を見送ると、彼方にて門口を構える村へすごすごと歩いていった。
歩みを進めるごとに、頭上を埋め尽くして立ち籠める雲が徐々に黒っぽく身を染めていく。直に雨が降るのだろう。
見慣れた、いつもの光景だ。
果たしてレイの言う通り、辿り着いた先はハウスがある程度には規模の大きな村だった。案の定降り始めた雨に、セリニはレイが広げてくれた外套の中に飛び込みつつに木組みの門を見上げる。
村の名はスピティ。入り江に構えたその村は見るに漁業と貿易で経済を回しているらしい。この程度の小雨はものともしないとばかりに往来には人々が忙しく行き交い、港のほうでは男たちが漁に使うのだろう道具を船に積み込んでいたり、反対に船から荷を降ろしたりしている。
アルディナ地方においては、比較的健全な賑わいを見せる村だ。その輪郭の大半を外海に曝け出し、潮を纏った海風に年中吹き曝しにされているためか、湿っぽいところなど少しもなくからっとした雰囲気を肌で感じる。
もちろん、これは錯覚のみの話で、実際は海沿いという立地の上にしとしと降る雨のこともあってじめじめとはしていたのだが、スピティ村にはそれをも吹き飛ばすような朗らかな活気があった。
必要以上にレイの影に身を隠して周囲をそれとなく観察していたセリニは、それでようやく安堵の息を吐いて警戒を解いた。
ヴォルソルト大陸が東部アルディナ地方は、とかく人が住みにくい。気候が不安定でなにかと霖雨が降るのだ。一年を通して、晴れ間のほうがはっきり少ない。おかげで考えなしに作物を植えようものなら根が腐るし、苦労して家を建てても下手な建材では直ちに傷む。反面、真反対に位置する西部ゾーリャ地方はというと気候は穏やか、都市部も発展していて、少しでも暮らし向きに余裕があってかつアルディナに思い入れのない者はどんどんゾーリャに移住していく。そういう人口流出からなる人材不足も、アルディナの不毛加減に拍車をかけていた。
そして、そんなさまざまな背景から影響を齎されたものか、みんながみんなそうだと言うわけではないが、アルディナ地方の人々は陰鬱な気質の者が多い、気がする。当然セリニはアルディナ中の人々の住処を訪ねて回った経験があるわけではないから、これは自身の経験による偏見だ。
――セリニの容姿は目立つ。変に飾り立てているわけでもないのに、妙に人の目を惹く。それは言い伝えに残された女神メーヌリスの姿と彼女の容貌に重なる点がいくつか見つけられるためだろう。
この見目のせいで、セリニは要らぬ苦労をしてきた。女神の生まれ変わりだのなんだのと纏わりつかれて拝まれたり、救いの手を差し伸べることを強要されたり、時には胡散臭い宗教団体に本尊のような扱いで担ぎ出されそうになったこともある。
だが、少なくともここスピティではそんな妙ちきりんな輩はいなさそうな気がする。時折道行く人とばちっと視線が合ってしまっても、誰も彼女をまじまじ不躾に見ることもなく、そのまま通り過ぎていく。彼女の容姿に目を留めてあれこれ騒ぎ立てる者はひとりもいない。
このぶんなら、安心してハウスに腰を据えて稼ぐことができそうだ。これであとは割のいい仕事さえあれば万々歳なのだが。
ただ村の中を歩いているだけで稼ぎは増えない。内に籠るようにぐるぐると考えを巡らせるのはやめにして、セリニらはまずハウスへと赴くことにした。
レイがハウスの扉を開けるのとほとんど同時ぐらいだっただろう。中からひとりの青年が息急き切って飛び出してきて、勢い余ってレイの腕の中に突っ込んできたのは。
「――どわあっ!? 硬ッ!!」
「む……、なんだ?」
だが、レイはびくともしない。細身ながらも恵まれた背丈と揺るぎない体幹とで、突っ込んできた青年をなにをするでもなく難なく弾き飛ばしてしまった。
レイの頑強な肉体に競り負けて玉突きみたいに弾き飛ばされた彼は、手にしていた紙を盛大にぶち撒けながら綺麗に引っ繰り返っていく。長く伸ばして結われた金色の髪が雲ひとつなく澄み渡った夜空に流れる星のごとく流麗に弧を描いて、無駄に画になる美しさだ。
レイが扉を開けるよりもひと足先に彼の外套の中から抜け出していたセリニは幸いその衝突事故に巻き込まれることはなく、ただ呆気に取られて一連の惨事を見つめることしかできずにいた。
「――い、いってえ〜〜っ……!」
「すまないことをした、怪我はないか」
正確にはレイは戸口に突っ立っていただけで、この男はそこへ勝手に飛び込んできた挙句に転倒したのだが。目の前でこうも派手にすっ転ばれては、なんだかんだとお人好しのレイの良心が咎めたらしい。わざわざ屈み込んで助け起こしてやろうとしている。
セリニはそれを横目に、青年がぶち撒けてしまった紙の数々を拾い集めてやることにした。その紙は依頼内容が記された書簡であったようで、彼女はどうやら彼が自分たちと同じ冒険者であるらしいことを知る。
――この人、こんなにもそそっかしくて、きちんと依頼が務まるのかしら……。
財布を中空に放り投げて鳥に食わせた自身のそそっかしさを棚に上げて、セリニは他人事ながら少し心配になる。
セリニが無責任な憂慮を寄せる横で、地べたに裾が擦れるのにも構わずにわざわざ傍へしゃがみ込んでくれたレイの良心的な行動に、青年は甚く感銘を受けたらしい。
「――そんなに心配してくれるなんて……、も、もしかしてあんた、オレのことが好きとか!?」
――甚く、感銘を受け過ぎたらしい。
青年は差し伸べられたレイの手を両手でがしっと握り締めた。レイの白いふわふわのポニーテールが動揺にぶわっと逆立った。セリニは青年のあまりの言動に彼を二度見してしまった。
青年の突拍子もない発言に、人で多く賑わっていたハウス内も一瞬静まり返る。が、すぐに何事もなかったかのように先までの騒々しさを取り戻す。
ハウスに屯する面々の妙な切り替えの早さにセリニは違和感を覚えたが、そんな彼女を余所にレイと青年のやり取りは続く。
「別に……好きではないが」
「友達からってこと? お、オレは別にいいんすけど、姉ちゃんたちがなんて言うかなあ……」
「なんなのだ、この男は」
帽子を目深に被っているせいで判然としないが恐らく照れ笑う青年を前に、レイは表情こそ変わらないものの声音に困惑が滲み出ている。
人混みに紛れても頭ひとつぶんは優に飛び出る長身に黒尽くめの格好、おまけに無愛想なレイに初対面からここまで好意的な人間も珍しい。レイの容姿がよほど好みで、そこに衒いなく優しくされたものだからころっと恋に落ちてしまったのだろうか。
物珍しさについ黙ってやり取りを眺めていてしまっていたが、レイの困り果てた様子にセリニは慌てて地べたにしゃがみ込み顔を突き合わせる男たちの間に割り込んだ。
ただでさえ人付き合いが苦手なレイには、この手の積極的な人種は荷が重かろう。それに彼が本当にレイのことを好きになってしまったというなら、彼はセリニの恋敵というやつになるわけで……――。
それはちょっと、色々都合がよろしくない。
距離感の詰めかたが尋常でない危険な男に対し、レイはすっかり困り果てて最早ひと言も発さない。……いや、これはいつものことだったかも。レイは人とのコミュニケーション能力を溝に捨てて生きてきたような男なので。
なんにせよ、そんなコミュ力マイナス値の男を守ってやれるのはセリニしかいない。セリニはさながらプリンセスを守るナイトのような心持ちで目の前の青年をきっと睨み上げた。
「きゅ、急になんなの、あんた! 初対面でいきなり、好きとかなんとか……!」
だがそんな彼女の威嚇もなんのその、青年はセリニの手元に目を留めて、恐らくは目を輝かせた。帽子で顔の上半分を覆い隠しておきながら、その下半分が補って余りあるほど表情豊かな男だ。その表情筋の柔軟さだけはレイにも見習わせたい。
「――あ! それ! わざわざ拾ってくれたんすか!?」
「えっ?」
予想だにしない言葉にセリニは戸惑い、自らの手に視線を落とす。そういえば、彼が落とした書簡を拾い上げて握り締めたままだった。
「あ、ああ……、これ? まあ、落ちてたから……」
出鼻を挫かれ勢いを削がれたセリニはもごもご言いながら、ひとまず書簡を青年に返してやる。
すると、彼はセリニの親切心に甚く感銘を受けたようだった。――受け過ぎた、ようだった。
「や、優しい〜! 是非、オレと結婚を前提にお付き合いお願いしまっす!」
「…………」
セリニは考えを改めた。
こいつはレイにだけ危険なのではない、全方位に危険な奴だ、と。
「いやあ、さっきはご迷惑おかけしちゃって、申し訳ねーっす」
「ほんとにね……」
長く美しい金髪を靡かせる青年は、名をナマエと言った。
あれだけ大急ぎでハウスを飛び出してきたのは依頼で指定されていた集合場所へ遅れそうになったからだという話だったが、セリニらとひと悶着あったことで完全に諦めたらしい。勝手にレイとセリニのテーブルに同席して、いかにも美味そうに里芋のパンケーキを頬張っている。
アルディナ地方の最も代表的な救荒作物と言えばさつまいもを指すのだが、その二番手にはしばしば里芋の名が挙げられる。アルディナの民の食生活は芋抜きでは語れない。
「久々のベッドが気持ちよくって、寝過ごしちゃったんすよね」
にこにこもぐもぐしながらナマエは言う。過ぎたことは気にしない質なのか、それにしても実に呑気なものだ。任務の無断放棄は冒険者生命を左右する信用問題にまで発展しかねないというのに。それともなにか他に生計を立てていくあてがあるのだろうか。……セリニの目には、そこまで用意周到な男には到底見えないが。ひもじく冷や水を飲みながら、彼女は目の前の男をじろじろ見る。
「でも、正直寝坊する気はしてたから、マスターに『朝になったら起こしてほしい』ってあんなに頼んだのに」
景気よく開かれた大口の中に、パンケーキの最後のひと口が消えていく。その拗ねたようなひと言が聞き捨てならなかったか、ちょうど追加の注文をテーブルまで運んできていた男が呆れ顔でナマエの脳天に拳骨を落とした。どうやらスピティのハウスはこの若き主人ひとりで切り盛りしている様子である。
落とされた拳の衝撃が被りもの越しであったということもあるだろうが、元よりさほど力を込めてはいなかったのだろう。さして痛がる様子もなくナマエは側に立つ若主人を不満げにちらりと見上げる。だが、不満を漲らせているのは若主人も同様だ。
「あのなあ、君。そうは言うが、俺はきちんと君を起こしに行ってやったし、引っ叩きまでしたんだぞ」
「あ、どーりで。朝からなあんか頬っぺたがイテーなって思ってたんすよ〜、えへ」
「……なるほど。斬新な辞世の句だな?」
「ごえんなひゃい」
怒りを滲ませながら、若主人はナマエの白い頬を今度こそ容赦なく抓り上げる。両者の間に漂う雰囲気は随分気安い。
聞くところによると、ナマエは遡ること約ひと月前、どこからかふらりと現れた流離人なのだという。突然襤褸切れ同然の姿でハウスにやってきて「冒険者になりたい」などとほざくものだから、面倒見のいい若主人は彼を放っておけずになにかと世話を焼いていたらしい。
ナマエの求婚癖≠ヘその頃から老若男女問わず遺憾なく発揮されていたようで、村の者や行商人だの冒険者だのの馴染みの訪客らなどはもう慣れたものだという。セリニは、そこでようやくナマエの突飛な言動が容易く見過ごされた理由を知った。
そして今日こそはとうとう痩せこけた身体にいくらかの肉もついて、いざ初仕事という大事な日だったようだが、結局ナマエが寝過ごしたせいでその予定も頓挫したようである。
「しかし――、」
ナマエが仕事を放棄したせいで結局ただの紙屑と化してしまった依頼書に目を通しながら、レイが呟く。
「――これは、今日が初仕事の男≠ノ任せるような依頼内容とは到底思えないが」
レイの黒手袋に包まれた長い指が書面上の文をなぞる。その指先を追ってセリニが視線を巡らせると、そこには『狂暴界獣の討伐』という一文と、目も眩むような報酬金額が記されているのが見て取れた。
界獣らは無為な闘争や縄張り争いの果てに、共食いを始めることがある。同族喰いという狂気の果てに至った界獣は暴走し凶悪さを増すことで知られ、冒険者たちはそういった界獣を指して狂暴界獣と呼び習わす。
討伐にかかる危険度と言えば通常個体とは言葉通り段違いだ。罷り間違ってもまともに依頼もこなしたこともないような新人が請け負う仕事ではない。
「……俺だって、何度も止めたんだ」
レイの指摘に、若主人は忌々しげに目を細める。
ちなみに当のナマエはというと、宿泊代の代わりということで若主人に言いつけられてハウス内の雑用をこなしている真っ最中だ。遠目に、キッチンの中でくるくる動き回っているのが見える。
鈍臭そうでいて、あれで火を起こすことやその扱いについては大の得意であるらしいというのだから、セリニは彼の意外な一面を見た思いがした。
「君たちも冒険者なら、ハウスの仕組みはなんとなくわかってるだろ?」
遣る瀬なさそうな若主人の言葉に、セリニとレイは言葉もなく頷く。
ハウスは冒険者用の宿としての役割の他、役場としてのはたらきも兼ねる、半ば公的機関のような存在だ。その運営費は冒険者支援の一環として支払われる国からの助成金や、依頼の仲介料からなっている。
ハウスに貼り出されている依頼の多くは、掲示さえタダではないのだ。例え依頼を受ける者が現れなかったとしても、依頼主は冒険者への対価として用意していた報酬とはまた別に、掲示料だけはハウスに定期的に支払わねばならない。
だからハウスにとっては、依頼は受け入れるだけ受け入れたほうが益が出る。
そうして貼り出した依頼は一度冒険者が受諾の意を示し、また依頼主もそれに同意してしまえば、ハウスであろうともその後の介入は容易でない。ハウスが必要以上に依頼受諾の締付を行うことで小銭稼ぎに執心するのを防ぐための取り決めだ。
「止めはしたが……、いつの間に顔を合わせたのやら、先方がどうやらナマエのやつを甚く気に入ってしまったらしくてな、『是非とも彼に任せたい』と連絡があった。どんなに説き伏せてもナマエはやる気だし、先方に掛け合っても取りつく島がない。お手上げだったんだ」
「……その依頼人の人って、どんな人なの?」
聞くにろくな人物ではなさそうだ。討伐依頼だのと言いながら戦闘経験もなさそうな新人を諸手を挙げて討伐隊に迎え入れるあたり、信用ならない。なにか他の思惑があってのことではないのかと邪推してしまう。
レイの旅に同行しているため、自ずと受ける依頼のほとんどが界獣討伐になりがちなセリニは、自分たちもナマエの二の舞にならないようにとそれとなく水を向けた。
……セリニにとってはさりげない話術のつもりだったが、対する若主人は心得たように眉を下げて微笑むので、あまりにあからさまだったかもしれない。
「そうだな……。ナマエが言うにはふわふわの獣人≠セって話だ。
俺のところまで依頼を持ってきたのは小綺麗な恰好の老紳士だったんで、てっきり彼が依頼主かと思っていたんだが……。今にして思えば、彼は代理人かなにかだったのかもしれないな」
「ふうん……、獣人か……」
まあ、ありえない話でもないだろうとセリニは頷く。
豊かながらも排他的な西方ゾーリャとは違って、日々を生き抜くだけで必死な貧寒の地アルディナに差別的な気風は少ない。が、少ないというだけで一切ないというわけではないのだ。奇異の目で見られることを嫌って人里に降りたがらない異種の民の話は、セリニもたまに耳にする。
「――まあ、そういう事情なわけでさ、実のところ、ナマエがぐうすか寝こけてるのを見たときはちょっと安心したんだ。あいつが討伐隊に加わったところで、犬死にする未来しか見えなかったからな」
「それは……言えてる」
「だろ? だからここだけの話、最初からあんまり真剣に起こしてやる気もなかった。ナマエのやつには言うんじゃないぞ」
「――呼んだっすか?」
と、ちょうど話がひと区切りついたところで帽子を目深に被って目元を隠した金髪の青年――ナマエがなにか料理をひと皿持ってその場に戻ってくる。若主人は彼の問いに緩く首を振ると、ナマエの手から料理を取り上げて、それをセリニたちの前に置いた。
現在セリニとレイは文字通りの一文無しだから、無料でもらえる水だけ飲んでいたのだ。もちろん料理など頼んでもいない。窺うように見上げると若主人はにこりと笑って料理を食べるように促すから、「これは口止め料か」と受け取ったセリニはぺこぺこのお腹を慰めるべくナイフとフォークを取った。
目の前に置かれたのは先ほどナマエも食べていた里芋のパンケーキだ。脂の溶けたベーコンがふんだんに乗っていて、その上から透き通った赤色のソースが惜しげもなくかけられている。
隣に座るレイを見るも彼はやはり食事を摂るつもりはないようで、セリニは特にふたりぶんに切りわけることもなく、パンケーキにナイフを差し入れる。
パンケーキはふわふわと柔らかく、力を入れもしないのにナイフの刃がぐんぐんと飲み込まれていく。銀色のフォークの先、鮮やかな美しいソースが絡まったベーコンとパンケーキを存分に目で楽しんでから、彼女はそれを口に入れる。
「――美味しい!」
「へへ、よかったっす! それ作ったの、オレなんすよ! ソースはマスター特製なんで、味付けの手柄はほとんどマスターのもんだけど……、いい焼き加減っしょ?」
「人間、誰しも取り柄ってあるのね!」
「え? 悪口?」
自慢げににこにこ笑うナマエの言葉通り、レイとセリニに出会い頭に求婚をかましてきた男とは思えぬ繊細な焼き加減にセリニは思わず舌を巻く。
里芋のパンケーキはどこを切り取ってもふわふわで舌の上でふるふる踊るほど。対してジューシーなベーコンは縁がかりかりに焼き上げられており、食感の違いに味覚だけでなく顎まで満足させられる。
「――それで、ものは相談なんだが、おふたりさん?」
「むぐっ」
勢いづいたセリニがパンケーキを二口、三口と頬張るのを見計らったように切り出された若主人の言葉に、つい喉が詰まる。
恐る恐る見上げてもハウスの若き主人の笑顔は明朗にして揺らがない。
「こいつを連れて、簡単な依頼をいくつか受けてみないか?」
「え、オレ?」
突然若主人によって前に押し出されたナマエが、きょとんと首を傾ぐ。
若主人の言葉に、セリニたちを脅しかけるような圧は全くない。笑顔も腹黒さなどなく至って爽やかだ。だが、一定の間隔を保ってテーブルをとんとんと叩く彼の節榑立った指は、セリニが今まさに頬張るパンケーキが乗った皿に対して明らかに含みを与えていた。
「ナマエのやつも、ひとつふたつと依頼をこなしてみれば冒険者としての箔がつくってものだろ」
「なぜ私たちが、」
こんな妙な男の面倒を見ていられるか。セリニとレイの思いは恐らく未だかつてないほどに一致していた。
話の流れにさすがに黙っていられなくなってか、レイが口を挟む。
「え?」
「…………」
しかし一笑の元に放たれた、たった一語とテーブルを叩く指に儚く撃沈してレイは黙り込んでしまった。
若くしてハウスを経営し、数多くの海千山千の冒険者らと渡り合うような男に、レイが太刀打ちできるはずもなかったのだ。
「で、でも、自分たちで言うのもなんだけど、あたしたちだってまだまだ新人なのよ」
代わって、今度はセリニが交戦に出る。
「特にあたしは戦いに関してはまだおんぶに抱っこ状態だし……。とてもじゃないけど、他の人のデビュー戦を見守ってあげられるほどの余裕はないわよ」
「またまた、謙遜することないだろ」
だが、若主人は動じない。
「近頃、界獣討伐で名が売れてる黒尽くめの男――レイっていうのは、君のことだよな? 君みたいな奴がついててくれれば、ナマエも安泰だ」
……どうやら、元よりレイを実力者と見込んでこの話を持ち掛けていたらしい。とうとう言い逃れはできそうもないと諦めて、セリニは大人しく話を聞く姿勢に入った。
満足げに笑みを深める若店主の輝かしい面持ちが忌々しい。
「もちろん、パンケーキひとつでとは言わないさ。……足元に付け込むようで悪いが、君たちは手持ちが心許ないようじゃないか?」
「……そうね。ご覧の通り」
ハウスはどこでも冒険者割≠ェ適用されていることが多い。食事も宿も、ハウス内に売店があるならそこでも割引がきく。これも冒険者支援の一環だ。その割引がありながらも一切食事類を頼もうとしないセリニたちの姿は、さぞハウス内で悪目立ちしていたことだろう。
「他の奴らには内緒にしてほしいんだが……、特別にここの宿代を半値にしよう。支払いも後払いでいい」
「えっ」
小さく耳打ちされた言葉の内容に、ついセリニは目を輝かせてしまう。
なにがあるのかわからないのが冒険者稼業というもの。依頼のために宿を発って、そのまま命を落として二度と戻らないということも往々にしてあるから、通常なににつけても支払いは先払いが冒険者たちの一般常識だ。草臥れた身体に鞭打ってひとまず宿代だけでも稼ぐつもりでいたセリニたちにとっては、破格の条件と言えよう。
――それでもこの求婚男≠ニ仕事に行くのは……。
彼女の逡巡を察してか、若主人はさらに言葉を連ねる。
「ちなみに、食事は朝晩ごと二皿までなら俺の奢りだ」
「その話、乗ったわ!」
「いやあ、話のわかるお嬢さんで助かるよ」
そうなると話は変わってくる。この求婚男≠連れていくにしてもそれは美味しすぎる条件だ。
喜び勇んで若主人と固い握手を交わしたセリニの背中にレイの物言いたげな視線がぶすぶすと突き刺さるが、構わない。
「ええっと、状況がいまいちよく飲み込めてないんすけど……」
若主人に料理皿を奪われたきり、ぬぼーっと突っ立っていたナマエがおずおずと口を挟む。
「つまりは、おふたりさんがオレの手助けをしてくれるってことでいいんすか?」
「そういうことになるわね。あたしとレイ、そしてあんた――ナマエって言ったっけ。これから暫く、あたしたちは仕事仲間ってことで、よろしくね」
こうなった以上は心中に要らぬ垣根を立てて無駄に噛みついている場合ではない。チームワークは依頼の成功率、ひいてはパーティーの生存率に関わる重要事項だ。
出会いこそ妙な始まり方をしたものだが、ここは自分が飲み下して上手く付き合っていけばいい。レイは他者に対する関心がよくも悪くも薄いから、ナマエとの付き合いはほとんどセリニの気の持ちようひとつでどうとでもなるはずだ。
それに、こうまでハウスの主人に熱烈に世話を焼かれる男が悪人なわけはない。変人であることは確かだが……、根が善良であるならきっと上手くやっていけるに違いない。
セリニが愛想よく笑って手を差し出すと、ナマエは下半分しか見えない表情を明るくして彼女の白く小さい手を嬉しそうに握った。
ここで初めて気付いたが、ナマエは頭の半ばを覆い隠してなお美しいとわかる顔の形をしていた。あの無粋な帽子を取り払ってしまえば、きっとうっとりするような美貌が露わになるに違いない。なぜわざわざ顔を隠して、こんな変人の極致のような恰好でいるのだろう。
「こんなに親切にしてくれるなんて……! や、やっぱりオレのことが好きなんすね!? 確かにいきなり結婚は急ぎ過ぎたかもしんないっす。ここは婚約からでどーっすか!」
「…………」
ナマエが変人然としているのは、正しく変人だからという、ただそれだけのことなのかもしれない。
こんな奴が相手でも、善き心の持ち主であるならば上手くやっていける……はずだ。多分、恐らく、きっと。
「あー……、軟派に見えて、これで中々可愛げのある奴なんだ。邪険にせず、面倒見てやってくれると助かる」
一抹の不安を抱いたセリニにハウスの主人は困ったようにそう言ってから、ふと唇に笑みを刻む。
「……マ、君たちはお人好しそうだから、心配いらないかな」
なにか見透かしたようにからから笑う若主人の言葉の真意をセリニが知るのは、すぐのことだった。
「レイせんぱーい! セリニちゃーん!」
青々と深い森の中で、ナマエの伸びやかな声が朗々と響く。
すわ何事かとセリニとレイがふたりして駆け寄ると、ひとり茂みの前でしゃがみ込んでいたナマエがぱっと腕を掲げた。その手の中には根から綺麗に抜き取られた草が束になって握られている。
依頼を受けて、今まさに三人が探し求めていた薬草だ。
「見つけた〜! あったっす! 依頼の薬草〜! ここ、めーっちゃ植わってる!」
「……む、これだけあれば、依頼達成にはじゅうぶん足りそうだな。でかしたぞ、ナマエ」
レイからの裏表のない簡素な言葉に、ナマエは頬を染め、唇をいっぱいいっぱいに吊り上げて「にこ!」と笑う。いかにも嬉しげだ。
男ふたりの様子を横目に、自分も薬草摘みに参戦しようと手を伸ばしたところで、ナマエがくるっとセリニのほうを向いて事もなげに言う。
「あ、セリニちゃん。その子は違うっすよ。放してあげて」
「え?」
セリニの白く華奢な指はちょうど一本の草を引っ掴んだところだった。びっくりして思わず手を離したが、彼女には目の前の草もナマエが持っている草も同じ草にしか見えない。それを察してか、ナマエが人差し指でセリニが摘み取ろうとした草の茎を柔くなぞる。
「ほら、見て。よく似てるけど、茎の色が少しだけ違うっしょ。こっちの、茎が茶色っぽいほうが頼まれてたやつっす」
そう言われてみれば、心なしか色味が違うような気もする。だが、裏を返せば言われてみなければほとんどわからないような些細な違いでしかない。その不便そうな視界でよくもまあ正確に差異を見わけられるものだと、セリニは素直に感心した。
「全然気付かなかったわ。教えてくれてありがと。ナマエって、植物の目利きが得意なのね。すごいわ」
「へへ、森暮らしが長かったんで、その賜物っすね!」
鼻の頭を泥で汚した間抜け面で誇らしげに胸を張るさまが微笑ましい。セリニは思わず口元をゆるゆると綻ばせかけて、――慌ててだらしなくない程度に表情をきゅっと引き締めた。
この数日間、ちょっとした討伐や採集の依頼などを共にこなしながら過ごすうちにわかったことだが、ナマエはやたらと人懐っこい。それも世渡りの巧さゆえというようなものではない。むしろどちらかというと、まるで人見知りをしない子供のように下心を感じないのだ。
それでいて鸚鵡が覚えたての言葉を自慢げに囀るようになにかにつけて「お付き合い」だの「結婚」だの言い出すから、妙にアンバランスな印象を受ける。ナマエが結婚というものを本当に理解しているのかどうかさえ、今では疑わしい。
――あの人の言った通りだわ。
セリニはハウスの主人に一杯食わされたような気になって、密かに大息する。
彼の言った通り、確かに、ナマエの為人を知れば知るほど邪険にしにくい。成熟した容姿に似つかわしくない純真さが垣間見えるせいだろう。
二十手前になろうかという歳の頃の男に対して言うようなことでもないが、ナマエと話していると本当に無垢な子供と言葉を交わしているような気分になってくる。あのレイでさえ普段では考えられないほどの親切さで面倒を見てやっているのだから、ナマエの人を引き込む力はいっそ恐ろしいまであった。
まあ、レイは他者を遠ざけるような素振りをするくせ、あれで人好きな一面があるから、案外「先輩、先輩」と無邪気に懐かれるのに気分をよくしていただけかもしれないが。いくらつんけんしてみせたところで、普段のお人好しっぷりを散々目にしてきたセリニにはお見通しである。
少し得意になって、セリニは傍に立つレイを見上げる。すると彼はセリニのその笑みを含んだ眼差しに鋭敏に気付いて、彼女の額を強かに弾いた。
ふたりがかりで作業に没頭するうち、少しもしないで依頼人から持たされたバスケットは指定の薬草でいっぱいになった。野党だの界獣だののお呼びでない者共からの不意打ちを防ぐべく、ひとり辺りを警戒していたレイもすぐに満杯のバスケットに気が付いたらしい。
「そろそろ引き上げるぞ」
レイの言葉にふたりは頷いて立ち上がる。村外れで薬草医を営む老夫婦の元へこの薬草を届けるまでが、三人が請け負った依頼だ。
「今日はナマエのお手柄ね」
バスケットの中にこんもりと拵えられた小さな茂みに、セリニはナマエを見上げてにっと笑う。レイを先頭に据えて後ろにセリニとナマエが一緒に歩く、ここ数日のお決まりの並びだ。
セリニの笑みにナマエはぱあっと顔を輝かせて口を開く。
「結婚――」
「――しないし、お付き合いもしない」
「ちぇ〜、残念〜」
前を行くレイはとっくにこのやり取りに慣れきっていて最早振り向きもしない。初めこそレイもまだナマエを警戒していたから逐一庇ってくれたものを、今やナマエにセリニをどうこうする気はないとわかっているせいで一瞥さえくれない。今のレイにとってはセリニとナマエの会話なんて、すぐ傍の枝木に止まってちゅんちゅんやってる小鳥たちの鳴き声と同じようなものに違いない。
実際、セリニにとってもナマエのこの求婚はもうほとんどそこらへんで吹いている風声とか小川のせせらぎとかとほとんど変わらない。
なんせ、ナマエの言葉には重みがないのだ。
「……あのさ、ナマエってどうしてそう色んな人に『結婚してくれ』とかって言うわけ? まさか、本気で言ってるわけじゃないでしょ?」
「え! 本気も本気、チョー本気っすよ!」
――んなわけあるかい。と思ったので、セリニはナマエの軽々しい否定は黙殺することにした。
「それにナマエは、本当にあたしのことが好きだと思ってそう言ってるわけじゃないじゃない。あたしからこんなこと言うのもちょっと変だけど、そういうのって失礼だと思うわ」
セリニの穏やかな批判に、さすがのナマエも暫し口を噤む。
常々思っていたが、ナマエの求婚にはなんというべきか温度がない。友好的な感情が向けられているということはかろうじて感じられるものの、ただそれだけだ。
ナマエ自身、ひと度拒絶されれば未練のある素振りもなく引き下がっていくところからして、やはり誰に対しても本気で入れ込んでいるわけではないのだろう。
だからこそ不思議だった。ナマエが他者の心を弄んでやろうという意図をもってこんな奇行を繰り返しているとは到底思えない。
ならば、この行動原理はいったいどこからきているのか。
――それに……。
セリニには、ひとつだけ気懸りなことがあった。
今ナマエの周りにいる人たちは、良識ある善意の人たちだ。彼らがちゃんと断ってくれたり笑って受け流してくれたりする人たちだからナマエの言動が大事にならずに済んでいるだけで、本来こんなことは妄りに口にすべきではない。こんなことを繰り返すうち、いつか彼が痛い目に遭うのではないかと心配だった。
彼女は無言のまま、隣に並び立つナマエを頭の天辺から爪先まで見る。
煌びやかな金の髪、均整の取れた身体つきにすらりとしなやかな手足。深々と被った帽子の下に曝け出された鼻梁は歪みなく通っていて、薄い唇は形がいい。
言動こそ妙だが、ナマエは顔を隠していてなお人目を惹く美しい容姿をしていた。美の化身のような青年に見かけだけは熱烈に結婚を申し込まれては、いつか本気にする者やなにかよからぬことを企てる者が現れたりしてもおかしくはない。
世の中には見た目が第一で中身など二の次と思っているような人間が大勢いることを、彼女は身を以て知っている。
セリニの真剣な憂慮を感じ取ってか、ナマエはもごもご言い淀んだ。なんの気なしに発した冗談を親に厳しく咎められたようにまごついている。
少しの間、気まずい沈黙が一行にぴたりと寄り添う。
「――あのさ、笑わない?」
静けさを振り払ったのは、ナマエだった。
「……内容によるわね」
窺うようにこちらを見るナマエに、セリニは少し考えてから言う。その返しにナマエが小さく笑った。普通、こういうときは嘘でも笑わない≠ニ返すものだと思うが、セリニは嘘がつけない。
「オレね、……結婚願望がめちゃ強なんすよ」
「それは知ってる。……なにかそうなった理由でもあるの?」
「理由、になるのかな。オレ、ちょっと歳の離れた姉ちゃんがいたんすよ」
笑いこそ起こりはしなかったものの、それがわざわざ改まって言うことかとやや拍子抜けする。さらに突っ込んで訊ねると、ナマエはにこにこ嬉しそうに姉の話を始めた。
その顔があんまり嬉しそうだから、セリニはナマエの「姉がいた」というひと言には敢えて触れなかった。
「姉ちゃんはオレが小さい頃に結婚したんすけど、オレの知る限りじゃ、旦那さんとそりゃあいつでもラブラブで」
「へえ……。いいわね、そういうの」
ナマエほどではないが、彼女にも人並みに結婚への憧れはある。今でこそ慌ただしい日々を送っているものの、レイの旅がいつか終わりを迎えたそのときは彼と一緒に穏やかな生活を送れたら、と夢想したことも一度や二度の話ではない。
セリニの共感にナマエは一層口元を綻ばせた。
「でしょ? だから、オレも姉ちゃんや義兄ちゃんみたいに運命の人≠見つけられたら、幸せになれるんじゃないかなって思って」
「……だから、誰彼構わず結婚してくれって言ってるってこと?」
こくんと頷くナマエに、セリニは込み上げるため息を抑えきれなかった。こんなの、丸きり子供の発想だ。
「余計なお世話かもしれないけど、ナマエの今のやりかたじゃ、お姉さん夫婦みたいになるのは少し難しいんじゃない?」
仲睦まじい姉夫婦に憧れるのはいいだろう。自分も姉夫婦のような円満な結婚生活を≠ニ思うのはセリニにも理解できる。
だが、だからといって少しでも優しくされたら老若男女問わずすぐさま結婚を申し込むなどといったナマエの行動はあまりにも突飛すぎる。
「……こういうのって、無理に急ぐものでもないでしょ」
ナマエの憧れを壊したいわけではないセリニは、彼女にしては珍しく慎重になりながら言葉を選ぶ。幸い、ナマエはセリニの発言を殊更に攻撃的に受け止めるようなことはなく、じっと耳を傾けているようだった。
「お節介かもしれないけどさ、ナマエはすごくイイ奴だから、変に焦っておかしな目に遭ってほしくないのよ」
「セリニちゃん……」
「なに?」
「も、もしかして、今……、オレに結婚を申し込んでる……?」
「だからそういうのをやめろって言ってんでしょ。いい加減、ぶっとばすわよ、あんた」
やはりふたりの前を歩くレイは振り向きもしないが、大きな嘆息が聞こえてきた。意外にも、会話だけはきちんと聞いていたらしい。
――薬草採取の依頼から、数日。
セリニとレイは未だスピティに逗留しながらも、今まで通りふたりきりで依頼に奔走する日々を送っていた。
あれからナマエと一緒に依頼に行くことはなくなったが、ハウスで顔を見る限り元気にやっているようだし、若主人も「背伸びをやめて堅実に依頼をこなしている」とご満悦であるからして、身の丈に合わない依頼に報酬金だけで飛びつくようなことはなくなったらしい。
なにかと面倒は見させられたものの、それを愛嬌と思えるほどには絆されていたセリニは、あの騒がしさが急速に遠ざかっていってしまったようで寂しいような安心したような不思議な心持ちでいる。とは言ってもハウスに戻れば、変わらずナマエは人懐っこく若主人や常連にじゃれているのだろうが。
ひとり忍び笑うセリニをレイが不審そうに見下ろすも、彼女は無視してハウスの扉を開けた。
ナマエももう依頼から戻っているのだろうか。朝から機嫌がよさそうに出ていったのを見たきりだ。視線をつと巡らせたセリニはすぐにカウンター席で若主人に泣きつくナマエの姿を見つけて、嫌な予感がした。
「エ〜〜ン! レイ先輩、セリニちゃん、助けて〜〜ッ!」
呼びかけもしないのに、ナマエもまた同様セリニとレイが帰還したことに気が付いたらしい。びえびえ泣きながら大声でふたりの名前を呼ばわった。
一瞬前まで抱いていたはずの寂寞は露と消え失せた。いっそ話しかけてこないでほしいまであった。
だが、そんなふうに見知った顔を冷淡に切り捨てることができるのならば、セリニとレイはお人好しなどと称されることはなかったのである。
「……なにがあった?」
ナマエの後ろで頭を抱えて項垂れる若主人の姿が無性に目について、セリニは嫌で嫌で堪らなかった。
どうしても言葉が出てこない彼女に代わってレイが重々しく訊ねると、ナマエは帽子をびしょびしょにする勢いで「びゃ!」と涙を溢れさせた。
「お、オレ……、引っ越し手伝いだけで馬鹿儲けって聞いてたのに……、」
――また妙な依頼に手を出しやがって!
「集合場所の豪邸には全裸の依頼主のおっさんしかいない上に『今日からここが僕と君の家だよ』って言われて怖くなって逃げたら法外な違約金支払わされそうになってるんす! 怖いよ〜〜っ! 助けてえ!」
「この空け者が……」
「あんたね、ほんとに懲りなさいよ、バカナマエ!」
――――
22/12/28
(管理人:瀬々里様)
今回お邪魔させていただきました創作世界はこちらのサイト様にて閲覧可能です。ご厚意に甘えてリンクを貼らせていただいております。迷惑行為はおやめください。
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