錯視とケーキ



【リクエスト内容(要約)】
 共有した創作設定をもとにした二次創作小説。

界獣共の揺籃歌と同世界観です
◎固有名詞をニュアンスで読んでいただければこれだけでも読めます





 ひと編みひと編みを素早く、だけど丁寧に、心を込めて形作っていく。故郷とは違ってここでは繊細で複雑な仕上がりであればあるほど好まれる。結婚する前からレースはたくさん作っていたから作業自体は慣れたものではあるけれど、大病を患ったことでいつでも薄暈けたようにぼんやりとしている視界ではさすがに言葉通り神経を使う。
 アルディナ地方にあるふるさとでは太めのレース糸で美しくもしっかりと丈夫な洋服や帽子を編むのが喜ばれた。だけどゾーリャ地方に越してきてからは、もっぱら細い糸でランチョンマットやコースター、それから花を模した飾りばかり作っている。時折珍しく大きいものを作るとしても小窓のカーテンだとか、キャビネットの上に敷くクロースだとか、そんなものぐらいだ。
 今編んでいるのもそういうクロースだった。縁がぎざぎざとしているが、だいたい正円に近い形。ほどよい大きさだからランチョンマットとしても置物用の敷物としても使えるだろう。細かで優美な編み目をしたそれは、人によっては大輪の花のようだとも透き通った雪の結晶のようだとも言ってもらえる。祖母から教えてもらったレシピのひとつだ。

 ふと小鳥たちが軽やかに歌う声に、私は手元から目を離して顔を上げた。凝り固まった首や肩の筋肉がちょっとだけ痛い。
 こうして窓際に腰かけながらレースを編んでいると、窓の硝子に向かって礫のような雨粒が激しく叩きつけてこないことを未だに不思議に思ってしまう。
 あの風雨を恋しいとは思わない。けれど近頃は、憎いばかりだった雨の冷たさを懐かしむことが多くなった。故郷を捨ててなお東部の女ぶるなんて馬鹿みたいな話だ。いざまた舞い戻れば、西部の温暖な気候に恋焦がれるに決まっているのに。

 窓の外からは依然として、温かな木漏れ日が私をぽかぽかと包み込むように射している。
 空き家になった古民家を格安で購入し、暮らしやすいように手を入れた我が家の庭には、一本の大きな木があった。夫がわざわざよそから買って植えてくれたものだ。
 日当たり良好という前触れで家を買ったはいいものの、ほとんど遮るものがないままに家に飛び込んでくる日光は刺激が強すぎるし、かといってカーテンを閉めきったままでいればそれはそれで体調を崩してしまう面倒な私を思いやった、彼の優しいはからいだった。
 私は身体が弱い。比較的調子のいい日でも一日中動き回っていると、すぐにばてて数日を寝込んでしまう。
 夫に故郷を捨てさせてしまったのも、この虚弱体質が原因だった。

 私はヴォルソルト大陸が東、アルディナ地方の生まれだ。同じくアルディナ出身の、幼馴染だった夫と共にこの町へと越してきた。ゾーリャ地方の南東に位置し、広大な森とその中を緩やかに流れる川に囲まれた町は、大陸一美しい町と呼ばれている。

 引っ越しのきっかけはゾーリャ地方のいち領地における、兄弟間での跡目争いの延長で勃発した先の内戦だ。順当に長子に家督が継がれたことを不服とした御令弟が目論んだという話だけど、詳しいことはあまりよく知らない。
 貧しい東部の民が出稼ぎに西部へ赴くことはそう珍しいことでもなく、傭兵だった夫も同様に、当時床に臥せっていた私を心配しながらも後に勝利を収めることとなる領主様の雇いの兵士として戦いに参加した。
 そこで獅子奮迅の武功を示した彼を領主様は大変に気に入り、交渉を持ち掛けたのだそうだ。家族と共に領民となり、我が剣になるつもりはないかと。
 安定した大きな稼ぎ、安定した気候での穏やかな暮らし。身体の弱かった私のために彼はその誘いに即座に飛びついた。
 それから私は彼に連れられて、ずっとこの家で彼の帰りを待っている。
 傭兵として剣を振るっていたときも、領地の兵士として兜を被っている今も、ただ家で夫の帰りを待つだけの私にしてみたらそうは変わらない。いつも通り滅多に戻らない彼を恋しがるだけの日々だ。以前と異なる点を挙げるとするならば、寒さを凌ぐための暖炉が必要なくなって、煤で喉が灼けたり寝込んだりすることがなくなったというところか。
 些細ではあるけれど、恐らくはこれこそが夫の求めていた安寧だったのだと思う。
 だけどこんな小さなことのために彼が愛した厳しくも美しい雪原を捨てさせたのかと思うと、私はいつもお腹の底がじくじくと痛んでやまなかった。彼が「そんなものよりもお前のほうが大事なんだ」と優しく抱き締めてくれるから、なおさら。
 それに私が彼に捨てさせたものはふるさとだけではない。彼のかつての交友関係までもが、ほとんど断たれてしまった。友人やお世話になった人たちへなんの相談もなくゾーリャ行きを決めたことで誹りを受けたためだ。
 ここへ来てからも周囲の人々には金に釣られた犬だなんて散々なことを言われていたようだけど、今では同僚たちとはうまくやれているようで、少し安心している。
 でも、私は駄目だった。西部の人たちは思い込んでいたよりも冷酷で意地悪な人たちではなかった。だけど常になにか隔たりを感じさせられていた。「余所者よそものにはこれ以上踏み込ませないぞ」という明確なラインが、彼らの中には存在していた。
 夫と違って明るくなく社交的でもない私は穏やかに引かれた線をひと思いに飛び越えることは難しかった。そうやっていつまでも馴染めずにいることが夫の優しさに対する裏切りのようで、少し心苦しい。

―よし、できた……」

 ほっと息を吐いて、できあがったばかりのクロースを畳んで他にもいくつかのレースが入ったバスケットに詰める。今月は少し作業が遅れていたからどうなることかと思ったけど、どうにか約束の時間には間に合わせることができた。
 それでものんびりしている暇はない。薄手のショールを羽織ると、私はすぐにバスケットと用意していたお弁当用の手提げを手に家を出た。

 小さい頃から身体の弱かった私は家のことでさえ満足にできないお荷物だったけれど、唯一編みものや繕いものなんかは上手にできた。
 身体をあまり動かさずにできる仕事がそれくらいしかなかったから上達してしまったというのが正しいかもしれないけれど、きっと私は元から人よりも多少手先が器用だったのだろう。子供時代には出稼ぎに出ていた父にゾーリャ綿をお土産に買ってきてもらい、それでレースを編んで村のお屋敷の方に買い取ってもらったり便利屋組合ハウスに持ち込んだりして家計の足しにすることも多々あった。
 結婚後もその生活はあまり変わらなかったけれど、ここへ越してくることが決まったときには、夫は「もうなにもしなくていい」と言ってくれた。
 今よりずっと稼ぎがよくなるから食事は外食でもいいし、家のことはお手伝いを雇ってもいい。ただ家で無事に、俺の帰りを待っていてくれればそれでいい、と。
 身に余るような優しい言葉をかけてもらいながらも編み針を懐に忍ばせたのは、ささやかな反抗心からだった。それで編み上げたレースを「余所者よそものの持ち込みは受け付けない」とハウスで買い取りすらしてもらえなかったのは大きな誤算だったけれど。

 慣れた道を速歩はやあし気味に歩いて、真っ直ぐに雑貨屋を目指す。

 大量のレースを手に近所の公園で途方に暮れていた私に声をかけてくれたのは、雑貨屋を営むおじいさんだった。
 初め、むっつりとした不機嫌そうな雰囲気で近付いてきたおじいさんに、私は失礼にもつい怯えて身を固くしてしまった。だけど彼はそんな私にも乱暴に振る舞うことなく、ひと言断ってレースを手に取ると、私の腕と作品を褒めてくれた。もしよければ、自分の雑貨屋にスペースを設けて作品たちを置きたいとも。
 それから私は月に一度のペースで、雑貨屋にレースを卸させてもらっている。

「ごめんくださいまし、おじいさん。レース、お持ちしました。随分お待たせしてしまってすみません」
「……期日には間に合っとる。そこに置いとくれ」
「はい」

 お店のベルつきのドアをそうっと開けて声をかけると、カウンターにいたおじいさんが顔を上げて私を見て、それからぶっきらぼうに言った。言われた通りにカウンターにバスケットを置いてから手提げに入れていたひと皿を取り出すと、おじいさんは太く真っ白い眉毛をぐぐっと押し上げる。

「あと、もしよかったらこれ……もらってやってくださいな。また、作りすぎてしまったので……」
「……お前はいい加減ひとりぶんの分量を覚えんか。料理が無駄になるだろ」
「うふふ……、ごめんなさい」

 おじいさん店主は一見冷たくて口数も少なくて、相変わらずなにを考えているのかよくわからないところがあるけれど、茹でパンや得意の芋煮をお裾分けするときだけは文句を言いつつも声音が僅かに和らぐ。どうやら味を気に入ってくれているらしい。
 空になった手提げとバスケット、そして以前に渡していたお皿を持たされて雑貨屋を出た私は、行きよりもずっと軽くなった手荷物をゆらゆら揺らしながらのんびりと町中を往く。レースたちを納めたあとは、お気に入りのカフェで紅茶とケーキをいただくのが私の数少ない楽しみのひとつだった。
 少しだけ軽い足取りで、公園を抜けるべく足を向ける。おじいさんとの出会いの場でもあるこの大きな公園は町の中央にどんと位置しているから、目的地によってはわざわざ避けていくよりも敷地を突っ切っていったほうが早い。雑貨屋からカフェへ向かう道もそうだ。
 そうして歩くうち、私はふと公園の芝生を敷いた広場で小さな男の子たちがなにやら集まっていることに気が付いた。
 だいたいみんな十を過ぎたぐらいの男の子たちは、そのほとんどが町を歩く中で見かけたことのあるような子たちだったが、取り囲まれるようにして輪の中心にいるひとりの少年だけは見覚えがない。
 役立たずの目でもそうとわかったのは、彼が鮮やかな髪色をしていたからだ。丁寧にことこと煮詰めたオレンジ・マーマレードみたいな髪が遠目にもわかるほど艶々と輝いていて、つい視線を奪われる。
 ……なんだか、無性にオレンジを使ったケーキが食べたくなってきちゃった。
 呑気なことを考えながらぼんやり見ていると、不意に輪を成す男の子のうちのひとりが彼を大きく突き飛ばしたので、私は泡を食って駆け寄った。

―こらっ、やめなさい!」

 声を張ると男の子たちは揶揄い文句を囃し立てながら走り去っていく。
 子供の喧嘩に大人が割って入るべきではないと思うけれど、多人数で取り囲んで文句を言ったり小突いたりするのは度を越している。これではいじめだ。
 肝を冷やしながらもどうにか彼らを追い払えた安堵に胸を撫で下ろしつつ、私はひとり取り残されて尻餅をついたままの彼を立たせて、襟元にたっぷりとジャボがあしらわれた手触りのいいシャツやズボンについた細かな草葉を打ち払う。
 彼は、随分と静かで穏やかな子だった。子供たちに囲まれているときもそうだったけど、見知らぬ女に駆け寄られて身体中を叩かれてもされるがままで、そのまま手を引いて町中へと連れ出しても文句ひとつ口にせず黙ってついてきた。

「リスティヴくんのおうちはどこにあるの? おばさん、そこまで送っていったげる」
「…………」
「え、ええと……」

 ただ家はどこかと訊ねる言葉にも無言を返されてしまったのには大変困った。なにを訊いてもにこにことこちらを見上げるばかりで、彼についてわかったことはほとんどなかった。唯一聞き出せたのは名前ぐらいだ。
 家に連れ帰るわけにもいかないし……、ハウスに行けばなんとかなるかしら? そうは思いつつも、かつて冷たく追い返された記憶が未だ鮮やかにあるせいで足が重い。
 うんうんと悩みながら歩いていると、ふと手が後ろへ引かれる感触があった。振り返ると、リスティヴくんがカフェの飾り窓をじいっと見ている。いつの間にか行きつけのカフェの前まで来ていたらしい。

「リスティヴくん、なにかあった?」
「……おいしそう、だなって……」

 訊ねておいて、きちんとした返事があるとは思いもしなかったから少し驚いた。
 飾り窓の中にはレースクロースを敷かれた二段の棚があって、そこへは料理の見本が並んでいる。
 傷ひとつない硝子窓にくっきり顔が照り返るほど近付いて中を覗き込むリスティヴくんの姿はこちらから見るとちょうど首元にレースを被ったようになっていて、なんだか可愛らしい。まるで彼までそこへ並ぶ料理のひとつになったみたいだ。あんまり可愛いので、胸がきゅんとする。
 その愛らしいものを目にしたときのときめきと、泣き言ひとつ漏らさない寂しく健気な彼が初めて見せた感動が私を少し狂わせたのだと思う。汚れが落ちきらないズボンを穿いた小さな彼と自分を重ね合わせてしまって、なんとか喜ばせてあげたいと強く思ってしまった。

「……あの、よかったらおばさんと一緒にケーキ、食べない?」

 私の突然の申し出に、彼のゼラチンを纏った苺みたいな目がぱちくりと瞬いた。



「……ナマエおねえさん」
「あ、ごめんなさい、ぼうっとしてて……なににするかもう決まった?」
「うん、ボク……このチョコレートのやつにする……。ナマエおねえさん、は?」
「私は……オレンジのパウンドケーキにしようかしら。リスティヴくん、また半分もらってくれる?」

 結婚もしているような年頃の私をおねえさん≠ニ呼んでくれる優しい彼と知り合ってから、オレンジを使ったケーキを選ぶことが格段に多くなった。しかし、果実の味が強いからかそれともこの店の単なる趣向なのか、オレンジを用いたケーキの生地はどれもどっしりとしていて、小食の私にはひと切れすら食べきれないこともある。リスティヴくんも私の胃の小ささには慣れたもので、いつもの愛らしい笑顔でこくんと頷いてくれた。

 私のささやかな甘い楽しみは、この小さなお友達―リスティヴくんが加わるようになってから随分と間隔を縮めていた。
 最初はどうにか彼を元気づけたいと思って誘っただけだったのに、物静かな彼とただただ甘いお菓子に耽溺する時間はかえって私のほうが満たされてしまった。人との交流にすっかり飢えていたのだろう。
 それからはふたりでなんとなく日時を合わせてカフェに訪れては、穏やかなお茶会を楽しんでいる。

 注文を通すと、やがて作り置きのホールケーキから切りわけられたふたりぶんの幸せがことんことんとテーブルに並べられて、どちらからともなく「ほう……」と感嘆のため息を吐く。
 ケーキに限らず、こうして誰かが作ってくれた料理がテーブルの上に並ぶ瞬間が、私は堪らなく好きだ。心待ちにしていたプレゼントの包装を解くときみたいに、うきうきとわくわくが爪先からじんわりと上ってくるような、そんな楽しさがある。
 私の前には上にスライスオレンジが行儀よく並んだパウンドケーキ。彼の前にはぴかぴかのチョコレートの衣が眩しいザッハトルテ。
 比較的さっぱりとした口当たりのものを好む私とは違い、リスティヴくんはチョコレートの濃厚な味わいや、バターをたっぷり使った食べ応えのあるケーキをよく好んで注文した。線の細い見た目にそぐわず食欲も旺盛で、このケーキも三人前以上の食事を終えてから注文している。豪勢な食べっぷりは見ていて気持ちよくなるほどだ。
 だけど私のほうはお店に入ってから初めての食事だ。口をつける前に女神メーヌリスへの祈りを心で捧げて、ようやく持ち手の細工が美しいナイフとフォークを取る。
 パウンドケーキはしっかり焼き上げられているのに、ナイフを差し向けると驚くほどなんの取っ掛かりもなくするすると飲み込まれていく。
 そうして半分に切りわけてから、私はフォークに突き刺したひと口を頬張った。
 バターと卵のいい香りが口から鼻へと突き抜けて思わずうっとりとする。そこへオレンジの爽やかな甘さとほんのりとした苦味がスパイスとなって、いくらでも食べられそうなほどだ。そうは言っても結局私はちょうど半分を食べきったところで満足してしまって、約束通り残りはリスティヴくんにあげてしまったのだけれど。

 お皿を空にした後は紅茶を飲みながらひと心地ついて、お店の外を眺める。
 お店を囲む四方の壁の一面全体がすっかり窓硝子になっていて開放的なこのカフェは、店内にいながら町の通りの様子を見ることができる。リスティヴくんがまだ追加の注文を頼もうかと悩みながらメニュー表を覗いている時間を、美しい町並みで目を和ませながらまったりと過ごすのが私のお決まりだった。
 だけど今日ばかりは少しだけそわそわして、意味もなくきょろきょろと視線を動かしてしまう。

―……おねえさん、今日……なんだか、うれしそう……?」
「……あ、そ、そうかしら。リスティヴくんとのお茶が楽しいから、はしゃいじゃってるのかも」

 年甲斐もなく落ち着かずにいたのを当然のように見抜かれたことが気恥ずかしく、つい誤魔化して笑う。別に隠すようなことでもなかったのに。
 今日は指折り数えて待ち続けた夫が帰ってくる予定の日だった。そのせいで朝からずっと浮足立っていて、普段はほとんど軽口を叩かない雑貨屋のおじいさんにも「今日は旦那が帰ってくる日か」なんて訊かれてしまった。

「ところで、今日もリスティヴくんはひとりで町まで来たの? 誰か……知り合いの大人の人とかは一緒じゃない?」

 強引な話題変えに、彼はきょとんとして私を見た。口元にチョコレートクリームがついたままだ。

「最近ね、町で誘拐事件……えっと、危ないことがたくさん起きてるみたいなの」

 備えつけのペーパーナプキンでクリームを拭ってあげながら、私はそう続けた。話題の流れを変えるために持ち出した話だが、いざこうして口にしてみると段々不安が募ってきて彼の指通りのいい髪を手で梳くように撫でる。
 近頃、町では子供を狙った誘拐事件が頻発していた。狙われているのはみんなリスティヴくんと同じ年頃の男の子たちだそうだ。町の有志者を募って構成された自警団が熱心に警邏けいらしているという話だが、未だ犯人を確保するどころか特定に至る手がかりすら上がっていないという。

「リスティヴくんはのんびり屋さんだから、心配なの。誰か変な人に声をかけられたりしたら、すぐに大声を上げるのよ。私が言えたことじゃないけど……、あのときみたいに簡単についていったりしちゃ駄目よ」
「うん……わかった……。ありがと、ナマエおねえさん……」

 本当に初めて会ったその日に彼を無遠慮に連れ回してしまった私が言えたことではないのだが、にこにこと笑って頷く彼にちゃんとわかっているのかしらと少し心配になる。

 結局それからもずっと夫のことで気はそぞろだし、リスティヴくんを長く引き留めているのも心配だしで、わざわざ時間を作って付き合ってくれている彼には申し訳なかったけれど今日のところは私のほうから早めに切り上げさせてもらった。
 家まで送るという申し出はいつも通り遠慮されて、リスティヴくんとはカフェの前で別れた。その後はあてもなくぶらぶらと町を歩く。家にいてもきっとのんびり腰を据えるのもままならないだろうし、それなら身体の調子自体はいいから散歩でもして気を紛らわせたかった。
 ふと気付いたときには随分歩いていたようで、町の端にある外門の前まで来てしまっていた。
 動悸も少し早くなっているし、少しひと休みしてから家に戻ろうかしら。
 そうやって辺りを見回して座れるところを探していると、急に自らの意思でなく足が地面からぐんと浮いたから、私は口から心臓が出るほど驚いた。

―ナマエ! ただいま!」

 間近に覗き込んでくる満面の笑顔に、暴れていた心臓が徐々に落ち着きを取り戻していく。

―もう、あなたったら……! 本当に、びっくりして心臓が止まるかと思った!」
「ははは! ごめん、ごめん! 久々にナマエの顔見たら、嬉しくなっちゃって!」

 私を抱き上げた者の正体は夫だった。すっかり安心して広い肩に凭れるように身を預けると、彼は嬉しそうに私の胸に顔を擦り寄せてくる。
 頬にはどこでつけてきたのか土汚れがついていて、つい笑う。暮れかけているとはいえ、まだこんなに日が高い。身成みなりにも気を回さず、急いで帰ってきてくれたのだろう。指で乾きかけの土を拭い取って頬にキスをすると、彼は顔をかあっと赤くして私を強く抱き締めてくれた。
 あまりの力強さに咳き込み笑いながら背中を叩くと、彼は慌てて私を下ろしてくれたから、ふたりで手を繋いでゆっくりと歩き出す。暮れなずむ空を見上げながらふたりの家に帰る。この瞬間が、なによりも幸せな時間だ。

「結構長く空けてたから寂しかったろ? しばらくは家にいられるはずだから、明日にでもいつものカフェに行って、ケーキ食べような! 俺とまたわけっこ・・・・しよう!」

 「パウンドケーキでもガトーショコラでも、なんでも頼んでいいぞ!」と沈みかけの太陽よりも明るく笑う彼は、さすがに私のことをよくわかっている。仕事先でも、自分がいないせいでまた私が似たような軽い口当たりのものしか食べられていないのではと気を揉んでいてくれたのかもしれない。
 安心させてあげようと最近できた小さなお友達のことを教えてあげると、夫は喜んで、でもすぐに拗ねたように唇を尖らせた。

「お前との半分こは俺の特権だと思ってたのになあ。……ようし! 明日から毎日カフェに行こう! その子としたよりも、俺といっぱいお茶飲むぞ!」
「ふふ、そんなに甘いの得意じゃないくせに。何日も続けて行ったらあなた、きっと三日もしないうちに飽きちゃうでしょう。わかってるわよ」
「飽きないってば!」

 いかにも不服そうな顔をして反論をするけれど、彼が私をわかっているように私だって彼をよくわかっている。私のカフェでの楽しみは、それが月に一度しかなかったから彼は付き合っていられたのだ。
 路地にさしかかり、赤くなった日が大きく遮られる。家の辺りは道が細く目立ったお店もないので、この時間帯になるとめっきり人気がなくなる。
 歩きながら延々と飽きる飽きないの問答をしているうち、急に繋いでいた手が重くなったから、私は笑いながら彼を見上げた。

「もう、やめて。ふざけてるの? 相変わらず子供っぽいんだから」

 でも、そこに夫はいなかった。
 驚愕に声もなく手元を見れば、繋いだ手からぶらんと力なく垂れ下がる、夫の大きな手。歪な断面を晒した手首より他は、ごっそりとない。

「……え、あなた、どうしたの……」

 口もないのに手首が喋り出すわけがないから、私の問いに返事をしてくれる者は誰もいない。
 夫がいたはずの場所には手首を境として禍々しい巨大な槍が地面に突き刺さっていて、その地面の辺りには夥しい量の血痕がある。その血は路地のさらに奥へと引き摺られるような跡を残していて、西日の届かない暗闇の奥深くからはフォークで生肉を滅多刺しにするような音が絶え間なく響く。
 そしてとうとうその悍ましい音が止んだとき、路地奥の闇が蠢き口を利いた。

―ナマエおねえさん」

 その声はリスティヴくんのものだった。
 どうして今ここにあの可愛いお友達がいるのだろうと上手く働かない頭で不思議に思う。そんなことよりも彼に早く「逃げて」と言ってあげなくてはならないとも思うのに、喉が潰れたように声が出ない。
 路地の奥から幽鬼のように姿を現したのはやはりリスティヴくんで、右手にはなにか赤いものを、左手には巨大な槍を手にしていた。今私の目の前にあるものと、同じ槍だった。

「ごめん、ね? 驚いた……? ナマエおねえさんと食べるケーキは、ボクのものなのにって思ったら、我慢……できなくなっちゃって……。やっぱり、我慢って、よくないよね……」
「ねえ、リスティヴくん……それ、なあに……?」
「ケーキもおいしい、けど……それよりも、初めて会ったときからずうっと、おいしそうだなって、思ってるものがあるんだあ……」
「お願い、ちゃんと私とお話して……」
「でも……ナマエおねえさんはいっぱい優しくしてくれたから、ボク、ちょっとだけ……我慢してたんだよ……? でもね、すごく、すごく、すごくすごくすごく、おいしそうだなって」

 人の、生存本能とも呼べるものががなり立てるように頭の内で警鐘を鳴らし続けているのを呆然と聞きながら、私はあるひとつの勘違いに気付き始めていた。
 飾り窓を覗いていたリスティヴくん。私はあのとき彼の首元にかかったレースを可愛いと思ったけれど、あのレースを被っていたのは私もだった。

「ねえ、おいしそうだったんだあ……。レースが敷かれた、鏡みたいに磨かれたショーウィンドウの中にいたおねえさんが、甘ぁいショートケーキみたいで……」

 彼が見ていたのは色とりどりのケーキたちなんかじゃなかった。私こそが、あそこに並ぶひと皿のケーキだったのだ。
 そしてにっこりと笑う彼の手に携えられた巨大な槍の穂先が、私の胸に。

「……いただき、ます」


―――
22/09/27


(管理人:瀬々里様)
 今回お邪魔させていただきました創作世界はこちらのサイト様にて閲覧可能です。ご厚意に甘えてリンクを貼らせていただいております。迷惑行為はおやめください。


prev | next
TOP > story > deliverables

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -