ルグリィとソリュードロ
「……もう、脱ぎっ放しにして」
――と、ルグリィはため息混じりにひとり呟いた。
彼女の目線の先には複数人掛けの大きなソファ。その背凭れに寄りかかるようにして、皺の寄ったシャツが放置されている。このシャツの持ち主は十中八九、一番上の兄――ソリュードロであろう。同じシャツを着用している三女のものにしてはサイズが大きすぎるし、次男と三男はそもそも自分の出した洗濯物をこんなふうに放置しない。
恐らく帰宅した勢いで上着を脱いで、そのまま風呂へと向かったのだろう。シャツの袖が空虚に指し示す脱衣所のほうを見て、彼女はまた小さく息を吐き出した。
――誰に害されることもない内地で平穏無事に暮らしている自分とは違って、外で異形共を相手取る兄はくたくたに疲れているのだろうから、殊更に責める気はないけれども……。
それでも、ため息のひとつやふたつぐらいは吐きたくなるものである。
「別にいいけどね……。家事ぐらい、全部あたしがやればいいんだし……」
内心に沸いた自らの小さな不納得を宥めるようにルグリィは独り言つ。そして腕を伸ばして、兄の大きなシャツを手繰り寄せた。
腕に抱え上げるとシャツから白地のものだろう、乾いた砂っぽいにおいの中に紛れて兄の香がすうっと漂ってきた。なんとも言い表しがたい彼固有のにおいと、ちょっぴり鼻をつく汗のにおい。
すん、とルグリィの鼻が無意識に鳴る。それからやや遅れて自らの行動を自覚して、彼女は慌てて周囲を見回した。
がらんとした室内に人の気配は、――ない。壁をいくつか隔てたところで物音はするが、長男と共に帰還を果たした他の兄たちや妹が久々の安穏を存分に堪能しているのだろう。
翻せばそれはつまり、今ここに自分を見咎める者は誰もいないということで。
妙な熱が自身の鼻の先にじわりと宿ったような気がした。胸が変に高鳴ってどくどくとうるさい。緊張で握り締めた拳のせいで余計にシャツに皺がつく。どうせ洗濯をするのはルグリィだ。構いはしない。
ルグリィは大きく吸った息を慎重に全て吐き出しきってから、そっとシャツの胸元に鼻を埋もれさせた。
「――へえ? 随分イイ男連れてんじゃん。妬けるねえ」
真正面から聞き慣れ過ぎた声がしたのは、彼女が顔を伏せたのとほとんど同時だ。
ぎしっとルグリィの身が強張る。蟀谷に汗が滲む。今この瞬間、彼女にとっては一秒が万秒にも感じた。それでもやっとの思いで、壊れかけのおもちゃのような挙動で顔を上げる。
するとルグリィの目の前にはやはり、このシャツの持ち主、ラングル家が長男ソリュードロその人が実に堂々たる立ち姿でいる。
「ね、おれには紹介してくんないの? ルゥちゃん」
蜜色の瞳を有した目がにんまりと弓形に歪むのを見て、ルグリィは頬がかっと燃えるように熱くなるのを感じた。
「っば、かなこと、言ってないで、脱いだ服はきちんと洗濯カゴに入れてっていつも言ってるでしょ、兄さん!」
「だぁから、置きっ放しでそのまま忘れてたのに気付いて、取りに来たんじゃん」
胸元に抱えたままのシャツを「びしっ」と指し示されて、ルグリィはやや怯んだ。
実際言葉通りなのだろう。予想通り風呂に入るところだったのか、常は結い上げている髪もすっかり下ろした上裸のソリュードロは、下肢をスラックスで雑に覆い隠しただけのような状態だ。重力に任せるままにずり下がってしまわぬようにとベルトループの辺りを掴んで持ち上げる右の拳に、長男にかろうじて残されたなけなしのデリカシーらしきものが感じ取れる。
「そしたら? 可愛い可愛いルグリィちゃんが、おれじゃなくてよりにもよっておれのシャツなんかに甘えてんだもん。お兄ちゃん、ジェラシー感じちゃうっ」
「もう! 絡まないでよ、うざったい! 早くお風呂、入ってきたら!? 疲れてるんでしょっ!」
「はあい」
ぐいぐいと強引に背を押すルグリィの手を、ソリュードロは拒まない。押されるがままに歩みを進めていく。
二歩、三歩と押してやったところでようやく自ら歩き出したソリュードロは、しかしふと思い出したようにルグリィを振り返って笑った。
「……お風呂、一緒に入る?」
兄の己への揶揄いを多分に含んだひとことに、ルグリィは鼻の頭に散ったそばかすが残らず埋もれてしまうほど赤くなって吠えた。
「――――誰が入るもんですかっ!」
「え〜、ざんねえん」
――――
23/04/16
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