タマキとライセ_2




◎タマキくんショタ時代


 ふと仰ぎ見た空は、赤みを帯びた橙に薄墨を混ぜ溶かしたような濁った色をしている。
 今日も今日とてコイトお姉さんに連れられてセレモニーホールへ訪れていたタマキは、たったひとりで暇を潰していたところにお使いを頼まれて、すぐ近所のコンビニへと向かっているところだった。

「ねえ」

 そう後ろから呼びかける声がしたのは、その道中でのことだ。タマキはランドセルにぶら下げた給食袋をがちゃがちゃ言わせながら反射的に背後を振り返った。

 そこにいたのはひとりの女だ。
 よく手入れをしているのだろう、艶々として美しい栗色の長い髪を右肩に寄せて流した彼女は、愛想よくにこにこと笑ってこちらを見ていた。くすみがかった薄紅をしたチェスターコートが、タマキの目にどことなく愛らしくも気品ある印象を植えつける。
 親しげに微笑む彼女の白い顔には、どんなに記憶を探ってみても心当たりがない。よもや呼びかけられたと感じたのは思い違いであったかと気恥ずかしくなりながら再び前を向き直っても、夕暮れ時の道路には自分以外人っ子ひとりいない。

 また後ろを向く。
 先ほどよりも女が近付いてきている。

 彼女の弓形に細められた目は、やはり勘違いでもなんでもなくはっきりとタマキに向けられているようだった。

「ねえ、ねえ」

 女はなおも甘く呼びかけてタマキへ手招きする。
 女の顔に見覚えはないが、叔父や、自分を可愛がってくれているライセからの繋がりで、全く知らない大人が自分のことを知っていてかつ親しげに声をかけてくるということは往々にしてあって、慣れていた。タマキは彼女もその手の者だろうと見当をつけてぺこりと会釈をした。人見知りのタマキにとっては、相手がいくら愛想よく笑いかけてくれていても自分から無邪気に歩み寄っていくのは並々ならぬ気構えが必要だった。
 彼女のほうも無理にタマキに距離を詰めるようなことはしてこなかったから、そのまま妙な緊張感と間合いを保ったままで睨み合うように対峙する。

「ねえ」

 ここでようやく、タマキは女の異質さに気付いた。
 女はタマキが見つめている限りは全く近付いてこない。だがタマキが気まずさに彼女を視界から追い払ったり瞬きをしたりするたびに少しずつ、だが着実に近付いてくる。
 その間、足音はしない。ほんの些細な衣擦れの音も聞こえてはこない。タマキが彼女を視野に捉えていないとき、それがどんなに一瞬の出来事であろうとも、女は一定の感覚でじりじりとタマキへ躙り寄ってくるのだ。
 徐々に近付いてくる、顔面の筋肉が笑顔の形で凝り固まってしまったかのように微動だにしない女の微笑を見上げながら、タマキは目を見張って硬直した。視線を逸らすことは愚か、最早瞬きひとつさえ恐ろしくてならなかった。女に背を向けて今にも走って逃げ出してしまいたかったが、顔を背けたが最後背中に取りつかれてしまうのではと気が気でなかった。

「ねえ」

 微笑みも声音も温度を変えないままで、また女が言う。それがタマキには、なんだか焦れているようにも聞こえた。
 白い手は依然としてタマキへ向かって招かれている。

「ねえ」

 また呼びかける。

「ねえ」

 何度も呼びかける。

「ねえ」

 何度でも、呼びかける。

 タマキの開かれたままの渇いた両目には涙が込み上げ溢れて、青白い頬をつるつると伝う。
 もう一歩も動けなかった。口もきけなかった。ただひたすら、これ以上女が自分に近付いてこないよう注視するだけだった。
 こんなにも長い時間、目を見開き続けていたことはない。涙で視界が霞む。眼球全体にじわじわと蝕むような痛痒さを覚える。

 タマキはとうとう堪えかねてぱちっと目を瞑り、そして瞬時に開いた。
 女が白い顔面に貼り付けたような笑みを浮かべている。近付いている。裾の長いチェスターコートは揺れもしない。
 一度目を閉じてしまったら駄目だった。目を瞑りたくないのに、目蓋はそんな意識に抗ってぐぐぐと閉じていく。女の白い貌を裂くような笑みが耳まで吊り上がっていく。

「ねえ」

 また、目を瞑った。
 視界が暗闇に閉ざされる。
 拍子に溜まった涙がぼたぼた落ちる。
 目を開かなくては。開かなくては。

 開かなくては。




「おい」

 前髪に、凍てつくような吐息がかかる。

 タマキは総毛立ってはっと目を開けた。しかし、視界は未だもって暗い。……いや、よく見てみればその暗闇はほんのりと暖色を帯びて柔らかい。
 何者かの手で目隠しをされているのだ、と気付いた。

 きょどきょどと何度も目を瞬くタマキの睫毛が、眼前に翳された指をひっきりなしに擽る。その大きな手の持ち主はそんなことは意に介した様子もなく、ぴくりともせずにタマキの視界を覆い続けている。

―ぎゃっ」

 そして突然、小さな悲鳴が聞こえた。歪で、手の内へぐしゃぐしゃに握り込まれたような声だ。猫の腹を思いきり踏み潰して殺したらこんな声がするのかもしれないとタマキは思った。

 もう幾度になるかもわからない瞬きをする。
 と、タマキの視界を覆い隠していた手はすでに消えていた。女の姿も、またなかった。
 タマキが呆然と立ち尽くしていると背後で砂利を踏む音がして、まったりと声がかけられる。

「オヤマア、こんなところにいたんだねえ。やあっと見つけたよ」
「……ライセくん」
ぼんらんどせる・・・・・も下ろさず消えッちまったって、斎場じゃ大騒ぎだよぅ。この、悪戯小僧め」

 振り返れば、黒装束に身を包んだ麗しの美少年―ライセの姿があった。
 初めて会ったときはタマキよりもいくらか上背のあったライセはその後数年を経ても容姿が一切変わらず、今や五年生となったタマキは彼の旋毛を見下ろせる。それでもタマキはまだライセを年上のお兄さんのように思うし、ライセもまたタマキをほんの小さな男の子のように扱った。
 ライセは厚底の黒い草履をぴたぴた鳴らしてタマキの隣へ並ぶと、当然のように手を差し出した。手を繋ごうというのだ。それを拒む理由もないから、タマキは差し伸べられた手を取った。
 気付かないうちに手汗をかいていたのだろうか。触れ合わせた手のひらがじっとり濡れている。

 ライセの小さな手に引かれながら、共にセレモニーホールへの道を引き返し始める。
 聞くにホールでは「タマキがいなくなった」と上を下への大騒ぎとなっているようだった。いくらなんでも誰かにひと声かけてから出るべきだったかとタマキはひっそり反省する。
 もごもごと事情を説明するうち当初のお使いという目的を思い出して、タマキは慌ててライセの腕を引く。タマキの訴えを最後まで遮らずにウンウン聞いてみせたライセは、その笑みのままタマキに問う。

「ところで、その御使いとやらはいったい誰に頼まれたんだい」

 タマキはなんの気なしに答えようとして、青褪めて口を閉ざした。ライセはそんなタマキの横顔をじっと見上げていたが、それ以上追及することはなかった。

「次に怖いことがあったら、御爺おじじを御呼び。好い子だから」
「……うん」

 タマキは小さく頷いた。
 にこ、とライセが薄笑う。

「さ、早く戻ろう。暇があるなら、儂の話し相手になっておくれでないか。貰いものの良い茶菓子があるんだ。そいつを出してやろうね」

 タマキはまたひとつ頷く。そうして自分を先導するように一歩先を行くライセの踵をじっと見た。
 黒々とした草履の、さらに濡れたように深く黒い踵の先を。


―――
23/01/14


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