そして現在、七海は件の料亭の一室で相手の到着を待っている。約束の時間より少し早く着いたので、受付で名前を告げて部屋に通してもらったのだ。完全個室である畳の空間は格式高い雰囲気を醸し出していて、仕事用よりも上等なスーツを選んできて正解だった感じた。
先程から七海の視線は卓上に注がれている。3人分の食器が用意されているのだ。家入や伊地知、はたまた夜蛾でも誘ったのだろうか。何も知らされていない彼は共通の知り合いの顔を思い浮かべて首を傾げる。やはり何か企んでいるのでは、と思考を巡らせていると襖が開いて待ち人が顔を出した。
「よう七海。待った?」
珍しいことに五条は約束の時間ぴったりにやってきた。彼も仕事用の服装ではなく、サングラスとスーツを身にまとっている。七海は明日の天気は雷雨か豪雪かもしれないと思いつつ、表情に出さないように答えた。
「いえ、さっき来たばかりです。ところで今日は他の方もお呼びしているんですか?」
「そうそう、ビッグなゲストだよー。ほら、入って」
五条が楽しそうに声をかけて後ろに隠れていた人物を部屋に入れた。
「建人、突然ごめんね」
「姉さん」
七海は思わず固まってしまう。五条が連れてきたのは七海の姉である名前だった。別に何ら不思議なことではない。五条と名前は長い間交際している仲なのだ。五条が食事に誘う人物の中でも最も有力な候補だというのに、全く予想していなかった。七海は姉と五条の交際を未だに受け止めきれていないのかもしれない、と複雑な気分に陥る。
そんな彼の思考は露知らず、名前と五条は並んで七海の向かいに腰を下ろした。
「それじゃあ早速本題に入ろうか」
五条が静かにサングラスを外す。彼の左手が視界に入った瞬間、七海は次に告げられる言葉が何であるのか安易に予想がついた。五条もわざと見せつけたに違いない。彼は目を細めて口角を上げた。
「僕達、結婚することになった」
「これからは五条名前になるの」
そう言って名前がはにかむ。直前の予想通りとはいえ、七海は平静を装うことが難しくなった。
「五条さん。念の為に聞きますけど、冗談の類ではありませんよね」
「まさか! 七海は僕を何だと思ってんの?」
「...すみません、ちょっと動揺して」
「大好きなお姉ちゃんだもんなー。分かるよその気持ち」
これ以上姉の前で揶揄されるのは勘弁してほしい。七海は五条のからかいを一旦無視して名前に尋ねた。
「母さん達はなんて?」
「電話で伝えたら喜んでくれたよ。来週実家に顔出しに行くつもり」
「そうか」
自分も同席した方がいいのか、そもそも両親は五条と面識があったのか。七海は聞きたいことがあったが、幸せそうな名前の顔を見ると言葉に詰まった。胸の内に嬉しいような、寂しいような複雑な感情が溢れる。
その場で一番気分が盛り上がっている五条は冗談めかして言った。
「というわけで、七海はこれから僕のこと悟義兄さんって呼んで」
「それは遠慮します」
「おいおい、照れるなよ。あ、そうだ、プロポーズの話とか聞きたい? 本当は僕と名前の秘密にしておきたいところだけど、今日は特別に教えてあげるよ」
「いいえ、結構です」
知りたくないと言えば嘘になるが、酒も入っていない席で聞くには気恥しい。素面で嬉々として語ろうとするこの男もどうかと思う。しかし五条は七海の遠慮など無視である。
「プロポーズはやっぱレストランとかのイメージじゃん? でもそれってベタすぎるし、僕的には」
「ちょっと悟、恥ずかしいって」
「だってあの時の名前があまりにも可愛かったしさあ、自慢したくもなるよね」
「なっ! 建人が嫌がるから、ほら、ストップ!」
「いやいや義兄がどれだけ名前のことを想ってるか見せつけてやらないと」
五条のノリは完全に酔っ払いのそれであった。隣で名前が顔を赤くするのを見て、ますます上機嫌になっている。七海は今夜は2人の惚気に付き合わされるのかと思うと気が遠くなった。とりあえず、料理を頼まなければ。それに酒がないとやっていられない。
その後、3人は運ばれてくる料理に舌鼓を打った。五条が予約していたコースはこの店で最上級のものらしく、どの料理も絶品であった。七海の脳裏に会計のことが浮かんだが、考えるのはやめた。散々惚気話に付き合わされたお代としていただくことにする。
食事を終えて名前が「お手洗いに行ってきます」と退室した。七海は彼女の足音が遠のいたのを見計らって静かに口を開いた。
「...姉さんのこと、頼みますよ。一応、アナタのことは信用しているし信頼していますので」
「本当、名前と違ってオマエは素直じゃないよね」
七海の言葉を聞いて五条はくつくつと笑った。
少し間があいて襖の外から足音が近づいてきた。おそらく名前が戻ってきたのだろう。七海は改めて祝福の言葉を贈ろうと心に決めるのであった。