潰える希望


 聖地マリージョアから命懸けで脱出した奴隷達は赤い港(レッドポート)の船を奪って“偉大なる航路”(グランドライン)に出た。後日、ニュースクーの新聞でマリージョアで起こった出来事の全容を知り、船上にいた全員が英雄フィッシャータイガーの名を讃えた。しばらく航海をして辿り着いた島で解散し、それぞれ自由な人生を歩み始めた。最年少だったナマエは他の大人達から一緒に行かないかと声を掛けられたが、丁寧に申し出を断り1人で旅をすることにした。当面の目標は故郷のアマゾンリリーに帰ることだ。

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 ナマエは漁船や商船に乗せてもらって島を転々とする生活を5年ほど送っていた。今年で彼女は16歳を迎える。各地で住み込みで働かせてもらいながら街の図書館にも通い、外海についての知識を蓄えた。アマゾンリリーに帰るには“凪の帯”(カームベルト)を通らなくてはならないということを知った時は絶望したが、今ではこの自由な生活も悪くないと思えるようになった。
 今回の船旅でナマエはシャーフ島のハンデルン王国というところへやってきた。ここは冬島で年中気温が低いのもあって毛皮産業が盛んらしい。街ゆく人々の多くが毛皮のコートや帽子で防寒をしている。ついこの間まで春島にいたナマエの服装はかなり浮いている。どこか手頃な服屋がないかと真っ赤になった指先を擦りながら街を練り歩く。この辺りは観光客向けなのか、どれも高級そうな店構えで入店するには気後れしてしまう。試しにショーウィンドウを覗き込むと、ファーコートにはナマエの生活費の数十倍の値札がついていた。衝撃を受けて硬直したところ、後ろから男性の声が聞こえた。

「お嬢さん。そのコートが気に入ったかね」
「あ、いえ、見ていただけなんです...。すみません」

 隣に立った人物を見上げて答えた。男性は20代後半から30代くらいで、パッと見ただけでも上等そうなスーツとコートを着ていた。コートの襟にあしらわれたファーがふわふわと揺れる。

「ハッハッハ!正直だな。それにしてもそんな格好じゃ凍死するぞ」
「防寒具は買うつもりなんですが、この辺りのお店のものは私には手が届かなくて。宿代も残さないといけませんし」
「なるほどな...。よし、これも何かの縁だ。私が用意してやろう。店に入りたまえ」
「え、どういうことですか」
「心配するな。ここは私が経営する店だ」

 謎の男性は自信たっぷりな笑みを浮かべると、戸惑うナマエの腕を引いて入店した。彼に姿を見た途端、近くにいた女性店員が綺麗な角度で頭を下げた。

「ペルツ様、今日はどうされましたか」
「この娘に服を一式見繕ってくれ。ついでに化粧もな」
「かしこまりました。ではこちらへどうぞ」
「え、あの」

 店員達が数人集まり、有無を言わさずナマエを広い試着室に連れて行った。背中を見られるわけにはいかないナマエは着替えは自分でやると主張し、カーテンの奥に1人で入った。店員から渡されたシックなパーティドレスに腕を通し、ヒールの装飾が美しいパンプスを履いた。続いて店員がメイクとヘアセットを施す。ナマエは仕上がりを鏡を見て胸が高鳴った。こんなに着飾ったのは人生で初めてにことだった。
 試着室から出て、先ほどの男性の元へ行くと笑顔で迎えてくれた。

「よく似合っているじゃないか」
「あ、ありがとうございます。でも、お代は...」
「まったく謙虚なやつだ。気にするなと言っているだろう。そのまま夕食へ行こうじゃないか」
「えっ!?」
「いってらっしゃいませ」

 会計はどうなっているのか、自分が着ていた服や荷物はどうなるのか、ナマエはそんなことを聞く間もなく連れ出された。おそらく彼が全て手回しをしているのだろう。

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 国内でも屈指の高級レストランに案内されたナマエは借りてきた猫のような状態でコース料理を食べた。マナー等分からない彼女は不安しかなかったが、とりあえず向かいに座る男性の真似をしながら過ごした。彼はそんな内心に気づいているのか、微笑ましそうに眺めているばかりだ。食事をしながら男性は穏やかな調子で話を切り出した。

「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
「あ...ナマエと申します」
「私の名はペルツ。この国で長年毛皮商をやっている」
「毛皮商?」
「海外の動物を捕まえてきて毛皮や加工肉をこの国で売っているんだ。どれも品質には自信があってね。国民から人気なのは勿論、国王様もご懇意にしてくださっている」
「凄い方だったんですね」
「ハッハッハ!素直だな。ところでナマエはどうしてこの国に来たんだ?ただの観光客って感じではなさそうだけど」
「私は訳あって各地を放浪している身です。ここまでは親切な漁師さんが連れてきてくれました」
「へえ...それなら安心だ。正直なところ、君は海賊かもしれないと疑っていたんだ」
「ふふっ、私が海賊に見えますか?」
「いいや、見えないね。どこからどう見ても可憐な少女だ」

 ペルツが平然と言った。もっと軽快な冗談で返されると思っていたナマエは居心地の悪さを感じ視線を泳がせる。ペルツは楽しそうに笑うと、別の質問を投げかけた。

「放浪している事情も聞いていいかい?」
「実は故郷に帰る手段を探しているんです。かれこれ5年ほどになります。航海術もない私が1人で帰るのは不可能なので、もう諦めかけていますが...」
「そうか...それは気の毒だ。ちなみになんていう島だ?私も商船があるから協力しようか」
「お気遣いありがとうございます。でも、私の故郷アマゾンリリーは“凪の帯”(カームベルト)にあって普通の船では行けないそうです」
「君は女ヶ島出身だったのか!私は海軍ともよく取引をしていてね、“凪の帯”(カームベルト)を通れる船も持っているんだ。次の仕入れで外海に出るから、ついでに女ヶ島へ立ち寄って行こうか?」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ!君とこうして出会えたのは運命かもしれないな」
「もしかすると、そうなのかもしれませんね」

 キザな言動はどうやら彼の通常運転らしいと気づき、ナマエも笑って返した。これ程虫が良すぎる話があっていいのだろうかと思う一方で、今はこの幸運に縋りつきたい気持ちがあった。
 食事を終えた2人は外へ出た。空は真っ暗で街灯が街を照らしている。見送りの店員がいなくなったタイミングでナマエはペルツに改めて頭を下げた。

「服だけでなくお食事までご馳走になってしまって、すみません」
「いやいや気にしなくていいんだ。私が付き合わせたんだからね。それより、今夜の宿は決まっていないだろう?私の屋敷へ来ないか」
「決まっていませんが、そこまでご迷惑になるわけには...」
「今更つれないことを言わないでくれよ。さあ、こちらへ」

 ペルツはナマエの細い腰に手を回して歩みを進めた。彼女は距離の縮め方に怯んだが、機嫌を悪くされるのは避けたいので大人しくすることにした。
 数分歩くとペルツの屋敷に着いた。入り口にいる見張りの兵もすれ違う使用人も皆ペルツに一礼していく。ナマエは恐れ多くもそのまま家主と共に廊下を歩いた。
 ペルツ曰く客間だという部屋に辿りついた途端にナマエは中に押し込まれた。ペルツが後ろ手に鍵を閉める音がやけに大きく響いた。

「...?ペルツさん?」
「なあナマエ。君は素直で大変可愛らしいが、少しは危機感を持った方が良いよ」
「え、ま、待ってください!そんな...」
「良いねえ、その反応」
「やめっ、やめてください!」
「そんなに怖がらなくていいさ。もしかして初めてかい?」

 ペルツは期待をこめた声で尋ねる。口角を上げたままにじりよってくる彼に、ナマエの本能が警笛を鳴らしている。いつの間にか彼女は壁際に追い詰められて、覆い被さられてしまった。恐怖で固まっているうちにドレスを剥かれて白い肩が露わになった。無理やり口付けられ、ナマエの瞳に涙が浮かぶ。続いて彼女の背中に指を滑らせたペルツは指先に違和感を抱いて凝視した。一瞬間をおいて意味を理解した彼は怒鳴るように声を上げる。

「...おい、嘘だろ!なんだこれは!」
「ひっ...」

 ナマエは恐怖で座り込んだ。背中を隠そうと必死に服を手繰り寄せる。ペルツは軽蔑したように声を荒げ続けた。

「やけにみすぼらしい格好をしていると思ったら、元奴隷だったのか!その見た目だからな、どうせ天竜人に使いまわされていたんだろう?」
「そ、そんなことは」
「まさかお前、病気を持ってたりしないよな!?ああ穢らわしい!!最悪の気分だ!!」

 実のところ、天竜人は家畜以下と見なしている奴隷相手に性行為をするようなことはなかった。しかしペルツは何か思い違いをしているようで、顔を歪めて騒いでいる。ナマエは力ずくで逃げるしかないと判断して変身した。小さな身体は何倍も大きくなり、白と黒の毛皮に覆われる。脅すように牙を剥き出しにして唸った。

「グルルルルル...!」
「なっ...!能力者だったのか!?」

 ペルツは腰を抜かしたのか、その場に座り込んだ。ナマエは構わずに扉を突き破って廊下に出る。騒ぎを聞いて各部屋から使用人が駆けつけた。

「大丈夫ですかペルツ様!!!」
「あいつを逃すな!!必ず捕えろ!!!」

 ペルツが叫んで命令すると使用人達は一斉にナマエへ向かった。ナマエは広い屋敷を全力で駆け抜けたが、護衛部隊と思われる集団に麻酔銃で打たれてしまい意識を手放した。

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 目が覚めるとナマエは檻の中に転がされていた。全身は鎖で縛られて身動きが取れない。彼女が起きたことに気づいたペルツは檻に歩み寄り、下卑た顔で言い放った。

「顔が良いから愛人にしてやろうかと思ったんだが...元奴隷なら話は別だ。しかも美しい動物(ゾオン)系能力者ときた!政府に差し出されたくなかったら、大人しく俺のコレクションに加わるんだな」
「あなたの本性はそちらですか...!」
「お前こそ正体を隠していただろう。故郷へ帰るのは諦めたまえ。いつか気が向いたら見せ物として連れて行ってやってもいいがな!」

 ペルツの高笑いが部屋に響き渡る。ナマエはこんな人間に一瞬でも心を開いてしまったことを激しく後悔した。溢れでる涙を拭うこともできないまま、奥歯を噛み締めて横たわっていた。
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