梔子に染まる


 怒鳴り声と呻き声。鎖が揺れる音と発砲音。毎日耳を刺激するそれらに皆が閉口した。狭い檻と僅かな食糧だけを与えられ、無意味な労働後には娯楽として弄ばれる。一切の希望を捨て、腹の底から湧き上がる怒りと憎しみを抑え込み、何とか自分の命を守るために支配を受け入れた。ナマエの脳内に天竜人の下品な笑い声が響く。血と土が混じった地面が歪む。吐き気を催し膝をつけば、足場が黒褐色の毛皮に変わった。今度は背後から無遠慮な手が伸びてくる。服を剥ぎ取られ、身体をまさぐられる。恐怖で石のように動けなくなった彼女は必死で叫んだ。

「やめて!!!!!」

 がばりと起き上がったナマエは荒くなった息を整えるように深呼吸した。今いるのはいつもと同じ発射管室だ。悪い夢を見たのだと理解が追いつく。枕元の目覚まし時計を確認すると普段より一時間早い起床だった。二度寝する気にもなれずに寝間着から黒いシャツに着替えて部屋を出た。顔を洗って食堂に向かうことにする。きっと誰か朝ご飯の仕込みをしているに違いない。
 ナマエの予想通り、食堂に行くと朝食の準備が行われていた。ナマエが挨拶をしてキッチンへ入るとシャチがまな板から顔を上げた。

「おはようございます」
「おはよう、ナマエ。早いな」
「目が覚めてしまいました。折角なので何か手伝わせてください」
「えっマジで?助かる!」

 シャチが嬉しそうに声を上げた。鍋を運び終えたペンギンもやってきて笑顔を見せる。ナマエは手を洗いながら二人に言った。

「シャチさんとペンギンさんは料理上手だと伺いました」
「まあガキの頃からずっと飯作ってるからな。ていうか、それってもしかしてキャプテンから聞いた!?」
「イッカクさんがおっしゃってました」
「イッカクかい!でも嬉しいなァ」

 ペンギンが口角を上げた。船長に褒められるのが本望のようだが、仲間からの言葉も嬉しいらしい。愉快な人だと思いながらナマエも釣られて笑みを浮かべた。奥のシンクで野菜を洗っていたベポも一旦手を止めて彼女に話しかける。

「ナマエは料理するの好き?」
「はい。こんなに大きいキッチンを見てたら色々やりたくなってきました」
「そっかあ。おれはちょっと苦手なんだ」
「大丈夫ですよ。一緒にやりましょう」
「ありがとう!」

 ナマエの言葉にベポは顔を輝かせた。シャチは味噌汁、ペンギンは焼き魚、ベポは小鉢を作るという分担らしい。ナマエはそれぞれの具材を切ったり、ベポの味付けの様子を見たりして手伝ったりしつつ余裕があったのでコンロを借りて卵焼きも作った。塩気があるのと甘いものの二種類用意する。いつもより早く調理が終わったので全員でデザート用のリンゴも剥くことにした。四人で談笑しながら料理をする時間は何とも居心地が良くて、今朝の悪夢で乱されたナマエの心はすっかり穏やかになった。
 起床時間になるとぞろぞろと船員(クルー)達が食堂に集った。誰かがトレーの上に器をのせながら言う。

「お!今日の朝飯はいつもより豪華だな」
「ナマエが手伝ってくれたんだ」

 シャチが味噌汁を掬いながら答えた。横で会話を聞いていたクリオネが自慢げに話に加わる。

「ナマエの飯は美味いんだぜ」
「お前食ったことあるのか?」
「この前の船番の時にな」
「いいなー!」

 そんな会話を繰り広げながら、各々トレーに朝食をのせて好きな席につく。献立は鮭の塩焼きと山菜の味噌汁とほうれん草のお浸し、卵焼き、白米、リンゴ。いつもより彩り豊かで豪華だ。寝ぼけ眼だった者達も目を輝かせて朝ご飯を口にした。各テーブルから様々な声が聞こえてくる。

「やっぱシャチとペンギンの飯は美味ェ!」
「この卵焼きはナマエの?色々入ってて良いな」
「ははっ!このリンゴ剥いたのベポだろ。頑張ったんだな」

 料理を担当した四人は同じテーブルを囲んで朝食をとることにした。ナマエは各所からの好評に微笑んだ。

「皆さんに喜んでいただけて嬉しいです」
「作りがいがあるよなァ」

 ペンギンもそう言って帽子の影に隠れた目元を細めた。四人が自分達で作ったおかずをつついていると、後ろからのそのそとやってくる長身の影が見えた。白い帽子を被ってラフな格好をしたローだった。ベポがいち早く振り返って声をかける。

「おはようキャプテン!」
「おはよう。...朝からえらく賑やかだな」
「ナマエも一緒に朝飯作ってくれたんだ!美味しいよ!」
「別に変わらねェだろ。お前達が作る飯はいつも美味い」
「キャ、キャプテン......!!」

 ベポ含めシャチとペンギンもローの言葉にハートを射抜かれた。ローはなんとも思っていないのか、キッチンで自分の朝食をトレーにのせて戻ってくるとベポの隣にどかりと座った。彼はきちんと帽子を脱いで箸を持ったかと思えば、一番はじめに卵焼きを口に運んだので、向かいに座っていたナマエが心配そうに尋ねる。

「お口に合いましたか?」
「少し甘い」
「すみません、次から気をつけますね」
「悪いとは言ってねェ」

 ローが顔を顰めたのを見てナマエは口を噤んだ。どのおかずも残さずに食べているので特に問題はないのだろう。彼女はほっと胸を撫で下ろした。

▽▽▽


 ポーラータング号は午前中のうちに次の島に到着した。人が住んでいる気配はなく、変わった植物や動物達が暮らすジャングルが広がっている。
 ローは電伝虫を携帯して一人でふらりとどこかへ歩いていったようだ。船員(クルー)はその背中を見送って各自掃除や見張りの仕事についた。特に仕事が無かったナマエはペンギンから狩りでも行かないかと誘われたので、喜んで同行することにした。シャチとベポも含めて朝食準備の時と同じメンバーで上陸する。
 ナマエ達は木の根に足取られないよう気をつけながら、大きな葉や蔓を掻き分けて進んだ。鳥や虫も多く生態系が豊かなことが伺える。ナマエは図鑑でも見たことないような動植物を目の当たりにして気分が高まっていた。残りの三人も見慣れない光景にはしゃいでいる。適当な木からフルーツをもぎとって食べながら歩いていると少し開けた水場に出た。全員が何かの気配を察して臨戦態勢をとるのと同時に、水面が盛り上がって巨体が立ちはだかった。ベポがその生物を見上げて叫ぶ。

「でっかいワニだーー!!!」

 ここらの主だろうか、生態系の頂点に君臨していそうなワニだ。獰猛な目つきで侵入者を拒むようにジリジリと近づいてくる。全員がワニの挙動を警戒している中、ペンギンがワニから視線を外さずにナマエを呼んだ。

「ナマエ、アレ仕留められるか?」
「はい。できます」

 彼女は断言して獣人型に姿を変えた。猛獣特有の鋭い牙と爪が現れ、全身の筋肉が増量し戦闘向きの体格になる。本能的な唸り声をあげて地面を蹴った。

「良いねえー!お手並み拝見といきますかァ!」

 興奮気味のシャチの声を聞いてナマエは期待に応えるように腕を武装色で硬化した。爪の先から肘にかけて白い毛皮がたちまち黒に変わっていく。彼女は大口を開けて迫ってくるワニを難なく躱して真上に飛び上がった。勢いを殺さぬように空中で身を捻りワニの脳天目掛けて腕を振り下ろせば、漆黒の爪が見事に鱗板を粉砕した。意識を失ったワニはそのままどさりと地面に伏した。
 彼女の華麗なる一撃に痺れた三人が拍手を送る中、本人は気恥ずかしそうに人型に戻った。興奮が冷めないままのシャチが彼女に駆け寄る。

「すげえ!さっきの覇気ってやつか!?」
「そうです。故郷では覇気を使うのが一般的でした」
「おれも使いてェ!教えてくれよ」
「私はまだ未熟者ですが...基礎でよければいつでもお教えします」

 ナマエの自己評価は低いものの、アマゾンリリーで習った経験で役に立てる事を誇らしく感じた。ペンギンとベポもおれも教えてくれとねだるように言っている。ワニを簡単に撃破した安堵もあって四人ではしゃいでいると、その場にいなかったはずの低い声が割って入ってきた。

「何だ。結構いけるじゃねェか」
「恐れ入ります」

 能力で移動して来たのか、足音も無く姿を見せたのはローだった。存外好感触な戦闘の批評をもらってナマエは恭しく頭を下げる。ベポがパッと顔を明るくして声をかけた。

「キャプテンも見てたんだ!」
「丁度近くを散策してた。おれはもう行く」
「アイアイ!またあとでねー」

 ベポはぶんぶんと手を振ってクールな船長の背中を見送った。一歩後ろでやり取りを眺めていたペンギンとシャチが何やらひそひそと話し始めた。

「キャプテンてさ、ナマエのこと結構気にかけてるよな」
「ペンギンもそう思う?やっぱ珍しいよな」

 二人が浮ついた表情でナマエを見る。対する彼女は苦笑して当事者としての率直な意見を述べた。

「お医者さんとして患者の容態が気になるのではないでしょうか」
「んー...まあそういう事にしとくか」

 ペンギンは納得がいっていないようだったが、これ以上は野暮だと話題を切り上げた。四人はワニをロープで縛り上げ、力を合わせてポーラータング号へと運ぶのであった。
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