秘密と強がり


 夕食とシャワーを済ませて暇になったナマエは先日イッカクに教えてもらったポーラータング号の書庫にやってきた。部屋に本棚を置くスペースがないので、皆が暇つぶしに購入した書籍は基本ここに収納されるそうだ。自由に利用して良いとのことなのでナマエは時々ここから小説を拝借している。
 しかし、今夜ナマエが探しているのはある分野の医学書だ。小さな電球を頼りに書庫の奥にある棚のやたら厚い背表紙をチェックする。この辺りにある本はローの私物だが、船員(クルー)達は船長の役に立つために時々ここの本を使って勉強しているらしい。それならばナマエも読んで良いだろうと判断して目当ての分野を探す。
 なかなか見つけられずに根気よく目を凝らしていると不意に足音が聞こえた。ナマエが慌てて振り返れば、白い帽子を目深に被ったローが立っていた。

「そっちの棚は医学書だぞ」
「ローさん。すみません、ちょっと興味があったので...。ご迷惑でしたらもう触りません」
「いや、気にするな。小説でも探してるのかと思っただけだ。ここにある本は好きなだけ読んでいい」
「ありがとうございます」

 咎められることはなかったのでナマエは安心して胸を撫で下ろした。ローからすれば医学書に興味を持つのは歓迎だ。ここに書庫にある本を大体把握している彼は探し物に手を貸すつもりで尋ねた。

「何か気になる分野でもあるのか?」
「形成外科学の易しい本でもあればと思ったのですが...」
「やけに具体的だな」

 彼女の返答にローは少し驚いた。船内で本を読む姿はよく見かけていたが、医学にも興味があるのだろうか。対するナマエはどこか気まずそうに視線を泳がせて言葉を続けた。

「手術で背中の紋章を消せないか調べたかったんです」
「...そういうことか。そんな回りくどいことしなくても、初めからおれの所に来たら相談にのってやったのに」
「いきなり訪ねてお手を煩わせるのも気が引けました。それにまだお金もありませんし、手術を頼むなんてとても、」
「ここは病院じゃねェんだ、金なんて気にするな。お前がその背中を何とかしてくれって言うならおれは手術してやるだけだ」

 ローの言葉を聞いたナマエが目を見開く。ここでの手術は自身の能力を鍛えるための研究や実験の一環みたいなものだとローは一応付け加えた。慈善活動と混同はされたくない。それでもナマエは彼の言葉に胸を打たれたのか、顔を上げて声を震わせた。

「そんな...お願いしても良いのですか」
「ああ。肩の抜糸が終わったら背中の方も何とかしてやる」
「あ、ありがとうございます...!本当に、何とお礼を言ったらいいか...」
「泣くな。まだ何も進んでねェんだぞ」
「う...っ、すみません...!」

 ナマエの目から大粒の涙が溢れた。普段は愛想の良い笑顔を振りまいている彼女だが、ローは何度か泣き顔を見ている。どうしたものかと思っていると、ナマエはほろほろと涙を流しながら言葉を紡いだ。

「船に置いていただけるだけでも有難いのに、こんな私情まで汲んでいただけるなんて...私はどうやってこのご恩に報いたら良いでしょうか」
「大袈裟に捉えなくていい。何かしらこの船に貢献してくれたら十分だ」
「船に貢献するのは誓います。ですが、私はまずローさんのお役に立ちたいです」

 ナマエの健気な瞳がローに向けられる。これまで数多の女性に上目遣いで迫られてもすげなく躱してきた彼であったが、こうも殊勝な態度をとられると折れるしかなかった。丁度小腹も空いていたのを思い出す。

「......じゃあ、今から飯作ってくれ」
「かしこまりました」

 頼み事をされてどこか嬉しそうな顔に変わったナマエを先に食堂に行かせ、ローは自分が探しにきた医学書と形成外科学の本を手にとって書庫を出た。

▽▽▽


 先に食堂に着いたナマエは余っている食材を確認した。夕飯で使った野菜や肉、白米も残っているので何でも作れそうだ。
 後からやってきたローに向かってカウンター越しに尋ねた。

「夜も遅いですから、軽いものがよろしいですか?」
「いや気にしなくていい。昼から何も食ってねェ」
「それは大変です!急いで作りますね。苦手なものはありますか?」
「...梅干しとパン」
「ふふっ、覚えておきます」
「笑うな」

 彼の意外な返答にナマエの口元がついつい緩んだ。ローは不満そうな顔でカウンター席に腰を下ろし、小脇に抱えていた本を開いた。ナマエは野菜と肉を適当に切って炒め、合わせ調味料と水溶き片栗粉を入れた。それを温め直したご飯にかけるとあっという間にあんかけ丼が出来上がる。彼は昼から何も口にしていないとの事だったのでしっかり食べてもらいたい。ナマエはそう思いながら丼と箸をローの前に置いた。

「どうぞ。お口に合うと良いのですが」
「ありがとう」

 ローは礼を言うと帽子を取ってから食べ始めた。行儀が良い人だとナマエは密かに思う。味は大丈夫だろうかと一瞬不安が過ったが、普段より僅かに険しさが抜けたローと目が合った。

「美味い」
「嬉しいです!」

 恩人からの褒め言葉を聞いてナマエは大いに喜んだ。ローは料理を気に入ったようで残さず綺麗に平らげた。洗い物を済ませたナマエが自信ありげに言う。

「何か食べたくなったらいつでも私におっしゃってください」
「それは助かる。おれはどうも料理は向いてねェんだ」
「そうなんですか?器用そうなのに、意外です」
「肉を切るのは得意なんだがな」
「ちょっと物騒に聞こえますね」

 冗談とも本気ともつかないローの言葉にナマエはクスクスと笑う。少しだけでも彼と打ち解けられた気がして心地が良かった。

▽▽▽


 ナマエとローが書庫で遭遇した夜から数日後。医務室にてナマエの抜糸が無事に終了した。丸椅子に座ったローが簡潔に告げる。

「これで終わりだ」
「ありがとうございます」

 ナマエは改めて頭を下げる。衣服を整えるのを待ってからローが話を続けた。

「それと、紋章の件だが...皮膚移植法で消せそうだ。手術自体に時間はかからないが、傷跡が残ったり移植した部分だけ周囲と色が違って不自然に見える恐れがある」
「紋章自体が消えるのでしたら、私はそれで構いません」
「分かった。肩の抜糸も終えたばかりだ。もう少し落ち着いたら手術に取り掛かる」

 ナマエはもう一度深く頭を下げた。過去は変えられないが、紋章が消えるだけでも心は随分と楽になる。手術の日が待ち遠しく感じた。
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