ゆりかご


 ベポの救出後、ポーラータング号はシャーフ島近海で潜水したまま身を潜めていた。有名な毛皮商だけでなく、海軍とも交戦したハートの海賊団はこれ以上あの国で騒ぎを起こすわけにいかない。2日経って漸く“記録”(ログ)が溜まり、彼らは急いで島を離れた。ナマエは長らくあの国で過ごしていたが、あまり良い思い出もない。出航したと聞いた時は胸がすいた。元の主人とはもう二度と関わりたくない。
 医務室にて、丸椅子に座って上の患者衣を脱いだナマエが無防備な背中をローに向けた。ローは真剣な眼差しで肩の傷を観察している。ナマエが痛みはだいぶ和らいだと伝えると、着衣の許可が下りたので服の前を閉じてローの方を向いた。彼はカルテにペンを走らせながら所見を告げる。

「特に問題は無さそうだな。もう好きに動いていいが、あまり負荷がかかることは避けるように。抜糸は1週間後だ」
「分かりました」

 ナマエは聞き分けよく頷いた。ローが一旦手を止めて顔を上げる。

「発射管室に予備のベッドがある。少し狭いが、今後はそこで寝泊まりしてくれ」
「お気遣いありがとうございます。私はどこでも大丈夫です」
「案内はイッカクに頼んである。部屋の外で待たせてるから、これに着替えて行け」
「私も着て良いのですか。ありがとうございます」

 ローがナマエに手渡したのはハートの海賊団のシンボルが入った白いつなぎだった。ここの船員(クルー)は皆これを着用している。正式な仲間では無いにも関わらず服の持ち合わせがない彼女に貸してくれるのだ。ローが背を向けてカルテの記入を再開したので、ナマエはよく気が回る人だと妙に感心しつつ手早く着替えを済ませた。礼を言って退室すると、扉の向こうにはこの船唯一の女性船員(クルー)イッカクが紙袋を抱えて立っていた。

「お疲れナマエ。行こっか!」
「はい」

 快活な笑みを浮かべるイッカクにナマエもつられて口角が上がった。そのまま彼女の案内に従い廊下の奥にある階段をおりていくと、発射管室と書かれた扉の前に着いた。イッカクに続いてナマエも中に入る。人間一人が楽に出入りできそうな幅の通路が中央を通り、両脇の壁には金属製の筒が地面と平行になるように固定されている。初めて見る設備にナマエは首を傾げた。

「ここは何をする部屋ですか?」
「魚雷を発射するところだよ」
「魚雷!?そんな場所に私が寝ても大丈夫でしょうか」
「頻繁に使うわけじゃないし、心配しなくて良いよ。ほら、ここが簡易ベッドになってて普通に横になれんだ」

 イッカクは発射管のすぐ下に設置されている台をポンと叩いた。金属の骨組みに平たいマットレスが乗っている簡素な物で、ベッドと言われなければただの棚か踏み台と勘違いしそうだ。しかしイッカクがどこからか引っ張り出した毛布と枕を上に置けば、ナマエにとって十分すぎる寝床になった。

「へえ、便利ですね。他の皆さんはどこで寝ているんですか?」
「上の階に居住区があって、男は相部屋の3段ベッドで寝てる。私は1人部屋だけど物置を改造しただけだからすごく狭いんだ。もう少し広かったらナマエもそこで寝泊まりできたんだけど...」
「そんな、お気になさらないでください」

 元々イッカク専用の部屋に自分が邪魔をしては迷惑だろうとナマエは思う。ここの方が船内の隅ということもあって気を張らずに使えそうだ。ふと、イッカクが思い出したように紙袋を差し出した。

「あとこれ受け取って。新品が丁度あったからあんたにあげるよ」
「え、良いんですか!?」
「次の島で調達するまでずっと同じってわけにはいかないでしょ?上はサラシで潰せるけど」

 紙袋に入っていたのは下着だった。中身を確認したナマエは地味に気にしていた問題が解決して喜んだ。彼女が姉を慕うような視線をイッカクに向けると満更でもなさそうに笑った。

「他にも必要な物があったら貸してあげるから、いつでも部屋に来て良いよ」
「本当にありがとうございます!」
「どういたしまして!むさ苦しい船に女子が増えて私も嬉しいんだ。仲良くしよう」

 イッカクとナマエが固い握手を交わす。男所帯の中で同盟のようなものが築かれ、イッカクは笑顔で話を切り出した。

「というわけで、早速シャワー浴びに行く?そろそろ男の利用時間が終わる頃だ」
「えっと...」
「別に無理にとは言わないよ。シャワー室の使い方なんていつでも教えられるし」

 ナマエが視線を逸らすのを見て、イッカクがフォローを入れた。しかし意を決したナマエは胸の前で拳を固く握った。

「折角ですから行きましょう。色々教えてください」
「任せて!一旦私の部屋に寄って着替えを取りに行こ」

 2人は発射管室出て居住区へ寄り、シャワー室へ向かった。その間にナマエは背中の秘密を曝け出す覚悟を決めていた。

▽▽▽


「ナマエ、その背中のって...」

 脱衣所で服を脱いだナマエは包み隠さずイッカクに背中を見せた。イッカクはその紋章が何を表すのか知っているようで、息を呑んだ。ナマエは自嘲気味に語り出す。

「昔、色々ありまして。私にとって忌まわしき印です。ローさんには既に手術の際に見られていますが、できれば秘密にしていただけると助かります」
「分かった。誰にも言わない」
「ありがとうございます」

 イッカクの瞳は真っ直ぐナマエを見つめていて差別意識など感じられなかった。誠実に話を受け止めてくれた相手に感謝してナマエは頭を下げる。
 まだ肩が不自由なナマエはイッカクに手助けしてもらいながらシャワーを浴びた。久しぶりに浴びた湯はナマエの不安まで綺麗に洗い流してくれるかのようだった。

▽▽▽


 夜もすっかり更けた頃、皆寝静まったのか上の階の足音は聞こえなくなった。発射管室のベッドに横たわったナマエは未だ目を開けたまま寝返りをうっている。しばらく医務室で寝て過ごしていた反動なのか、なかなか眠れない。食堂に行こうと思い立って部屋を出た。
 数時間前ここで夕食を食べた時はあんなにも賑やかだったのに、今は彼女が湯を沸かす音しか聞こえない。イッカクがキッチンにある物は自由に使っていいと言っていたので置いてあったハーブティーのパックを開封した。マグカップにいれて湯を注ぐとたちまちカモミールの柔らかな香りが広がった。
 そこでふと足音が聞こえ、ナマエは顔を上げた。こちらに歩み寄って来るのはローだった。手には分厚い本を持っている。相変わらず目元が険しい彼とは対照的にナマエは柔和な声で迎えた。

「こんばんは」
「こんな時間まで起きてたのか」
「ずっと安静にしていたので、かえって頭が冴えているんですよ。ローさんこそ、随分夜更かしなんですね」
「放っとけ」

 ぶっきらぼうな口調だが別に怒っているわけではなさそうだ。この短い付き合いの中だけでもローが悪人で無いと身を持って知っているナマエは穏やかに尋ねた。

「何か温かい飲み物を淹れましょうか?」
「じゃあコーヒーを」
「寝る前のカフェインは良くないですよ」
「まだ寝ないからいい」

 仏頂面で子どもっぽい屁理屈が返ってきたのでナマエは思わず口を綻ばせる。冷淡な人に見えてどこか親しみやすさを感じるところが船員(クルー)達を惹きつけているのかもしれない。彼女はそんな事を考えながらコーヒーを淹れた。
 ローはキッチンから見える席で本を読んでいる。ナマエが二人分のマグカップを持って向かいに腰を下ろしても何も言わないのでそのまま同席させてもらうことにした。少し温度が下がったハーブティーは飲みやすくなっていて、体が内側からじんわりと温まる。刺青の入った指がページを捲るのをぼんやり眺めて語りかけた。

「この船の皆さんは優しくて賑やかで、とても良い方々ですね」
「一応言っておくが、あいつらも俺も海賊だぞ」
「勿論分かっていますよ」

 ローは忠告をするように本から顔を上げた。能天気な事を言う彼女にやや呆れているようだ。それでもナマエは今まで見てきたどの組織よりも居心地の良さを感じていた。この海賊団に巡り会えた事は奇跡だと思っている。いつか船を降りる時が来るまでに何とかして恩を返したい。彼女の心にそんな願いが芽生えていた。
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