井の中の蛙(直哉)
 禪院家では女中達が掃除をする光景は珍しくないのだが、今朝はやけに大人数で家の中を忙しなく行き来している。通りかかった直哉は近場にいた女中に尋ねた。

「なんや、今日は客でも来るん?」
「はい。午後に五条家から使いの方がいらっしゃる予定です」
「五条家? 何の用や」
「直毘人様からお借りしていた呪具を返却なさるそうです」
「ふーん」

 五条家は当主以外目立った術師の噂は聞かないので、直哉の興味はそこで失われた。五条悟直々にやって来るならば挨拶にでも出向いたが、使いの者となれば大したことはないだろう。呪具を扱う術師ともなれば尚更だ。

 それから数時間後。直哉が欠伸を噛み殺しながら廊下を歩いていると、向かいから女中がやってきた。彼女の後ろには深い紺の外套を羽織り、フードを目深に被った怪しげな人物が見える。肌の露出は無く、素顔も伺い知れない。手に握られている呪具のケースから、かろうじてその人物が五条家の使いである事が分かった。直哉は鼻で笑うと皮肉を込めた言葉を投げかけた。

「五条家の使いってアンタか? 悟君もえらいちっこいの寄越しよったなあ」

 女中がビクリと肩を震わせる。しかし妙な格好をした術師は無反応のままで歩みを止めない。案内役を全うする為、女中は慌てて客の背中を追う。直哉は段々と近づいてくる術師を見下ろしながら舌打ちをした。

「ていうか人んち入るんなら顔くらい見せなやろ」

 相変わらず術師は無反応だった。女中だけが顔を青くしている。直哉はすれ違いざま、眉を釣り上げて聞こえよがしに言った。

「なんや、無視かいな。ええ度胸しとるやん」

 しかし3度目の無視を決め込まれ、術師と女中が目の前を通過した。直哉の額に青筋が浮かぶ。

「...ほんならちょいと試したろか」

 地を這う低音と共に術師の背中に鋭い視線を向ける。術式で瞬発的に加速し、無防備な後頭部を狙った。常人ならば反応できないスピードのはずだったが、直哉の攻撃は文字通り弾かれた。

「な、ッ!?」

 次の瞬間、直哉の視界に天井が写った。腹の上には術師の身体が乗っている。直哉の矜恃を傷つけるには十分すぎる動作だった。術師がため息を吐いて自身のフードを捲り上げると、まだ幼さの残る顔が顕になった。いくつか傷跡が目立つが端正な顔立ちだ。

「無視したことは謝ります。すみませんでした。面倒な絡まれ方をされたくなかったんです」

 術師の声は思いのほか高く、澄んだ水を思わせる。状況を飲み込んだ直哉は目を見開いた。

「女...!?」

 てっきり相手は男だと思っていたので衝撃が走った。そして同時に女に負けたという屈辱と憤りも腹の底から湧き上がる。今すぐにでも眼前の術師を跳ね除けたいのだが、身体が言うことをきかない。術師は直哉の抵抗をものともせず、淡々と言い放った。

「でも、先に攻撃を仕掛けてきたのはアナタですから。これでおあいこです」
「...オマエ、絶対使いパシリの器やないやろ」

 直哉が下から睨みつける。そこで初めて術師の表情が変化した。彼女は僅かに眉を下げて言った。

「人使いの荒い兄に頼まれたんです」
「まさか、兄貴って」

 直哉は冷や汗をかいて口端を引き攣らせた。ふと冷静になってみれば、彼女の顔にはどこか既視感があった。瞳の色は暗い色をしているが、長い睫毛に縁取られた目元に五条家当主の面影が重なる。

「では、失礼します。直毘人さんを待たせていますので」

 彼女はそう言うと何事もなかったかのように立ち上がった。狼狽える女中に一言二言気遣い、再び歩き出す。直哉はむくりと起き上がり、当主の部屋へ向かう後ろ姿に舌打ちをした。

「クソッ、あの女...!! 悟君の妹か...!!」

 彼女の正体は五条名前。五条家現当主、五条悟の実の妹であり、無下限呪術の使い手だ。それらの情報が直哉の耳に入るまで時間はかからなかった。
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