ほろ酔い道中

 先日放送されたサッカー中継を皮切りに、別の番組やウェブサイトでも電子ドラッグが拡散されているようだ。名前は世間一般との生活時間がずれているのでテレビを見ることは殆どないのだが、そんな彼女の耳にも届くほど事態は大きくなっている。
 実際に電子ドラッグ中毒者と思しき人物に絡まれたこともあった。その時は偶然通りかかった例の黒い帽子の男が助けてくれたが、今後はそうもいかない。父親もいなくなり、名前ひとりで働いている状態なので護身の手段を確立させた方がよさそうだ。診療所に非常用の拳銃を隠しているが、咄嗟に対応できるようにもう一回り小型のものがほしい。そこで名前は患者達に武器の仕入先を紹介してもらうことにした。

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 休診日の夜。名前は指定されたバーの席に座って取引相手の到着を待っている。店内には他の客の姿はなく、彼女はひとり静かに注文したモヒートに口をつけた。
 グラスの中身がいくらか減ったところで、向かいのソファにサングラスをかけた2人組の男が腰を下ろした。相手方の人数が多く、名前は警戒心を強める。色の濃いサングラスと黒いスーツで身を固めた方の男が口元に笑みを浮かべて名刺を差し出した。

「初めまして、私は早坂久宜。以後お見知りおきを」
「苗字名前です。こちらこそよろしくお願いいたします」

 名前は名刺を受け取って挨拶を返す。早坂の隣の明るい髪色の男は口を挟まずにやり取りを眺めている。今の所、危険はなさそうだ。名前が内心で分析を続けていると、前方の早坂はサングラスの奥から品定めするように視線を寄越した。

「どんな強面の医者が来るのかと思ったが、完全に予想が外れたよ」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
「是非そうしてくれ。...では、本題に入ろうか。探している商品があると聞いたが」
「小型で扱いやすい銃はありませんか? もしもの為に持っておきたいんです」
「小型ねえ...。それなら、リボルバーが良いだろう。細かい型番もこちらで決めて構わないか?」
「武器には疎いのでお願いします」
「分かった。支払いについてはまた後日連絡する。ユキ、契約書を出してくれ」
「了解」

 ユキと呼ばれた青年がペンと契約書を用意し、名前はそこにサインを書いた。彼は早坂の部下のようだ。契約を済ませた後、早坂が改まって口を開いた。

「ところで、苗字さん。臓器摘出の手術を頼むことはできるのかね」
「大丈夫ですよ。私の診療所にも『お金が必要だから』って手術を受けに来る方も少なくないです」
「我々の顧客にも金が足りないとほざく輩が一定数いてね。腕の良い医者を探していたところなんだ」
「なるほど。私でよければいつでも執刀しますとお伝えください」
「話が早くて助かるよ」
「いえいえ。早坂さんとユキさんも治療が必要な時はおっしゃってくださいね」
「頼もしいね。特にユキは暴れることが多いから、そのうち世話になるかもしれない」
「おい、アニキ!」

 ユキが声を上げ、早坂がくつくつと笑った。2人が兄弟であることを知り、名前は少しだけ驚く。会社では上司と部下の関係のようだが、確かに信頼関係はより強固なものに見える。名前の早坂兄弟に対する警戒心は初見に比べて随分緩んだ。
 その後、3人は酒を飲みながら仕事の話を続けた。早坂も名前も互いに良い取引先になるのはこの時点で察していたのだとか。

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 名前は無事に早坂兄弟との取引を終えて、バーを後にした。酒の席にしては早めの解散だった。終電まで時間はたっぷりとある。最悪終電を逃してもこの場から名前の自宅まで歩ける距離だ。彼女はたまの休日なのだから何処かで飲み直そうと思い、適当に歩き回った。すると通りかかったパチンコ店から見覚えのある人物が出てきた。

「あの時の...!」
「誰かと思えば姉ちゃんか。 最近よく会うな」

 黒い帽子を目深に被った例の男だ。パチンコ店から出てきた彼はタバコの匂いを強く纏っている。

「今夜は仕事じゃねえのか?」
「はい。今日は1日休みだったので、たまには飲みに行こうかと」
「同僚と?」
「いえ、ひとりです」
「じゃあ俺と飲みに行かねえか? これだけ会うのも何かの縁だろ」

 男は淡い期待を抱いて誘った。高確率で断られるだろうとは覚悟していたのだが、相手から返ってきたのは意外な返答だった。

「そうですね。せっかくなのでご一緒させてください」
「お! 姉ちゃんノリがいいな。行きたい店とかあるか?」
「すぐ近くに美味しい居酒屋があるんですが、そこでも良いですか?」
「むしろ教えてほしいくらいだ」
「じゃあ行きましょうか」

 敷居が高い店よりも気軽に飲める方が良いだろうと思い、名前は記憶を辿って居酒屋へ案内した。

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 2人がやってきたのは名前の父親、洋介の古い友人が店主を務める居酒屋だ。平日にも関わらず店内は賑わっていたが、運良く空いていた座敷に通された。床は掘りごたつになっていて楽に足を下ろす。男は黒い帽子を被ったままだ。鋭い目つきも相まって危なげな雰囲気を纏っている。名前は経験則から堅気ではないのだろうと予想を立てた。
 適当にメニューを選んで注文したところで名前からおずおずと口を開いた。

「あの...今更ですけど、お名前をお聞きしても?」
「そういえば名乗ってなかったな。俺は葛西善二郎。姉ちゃんは?」
「苗字名前です」
「苗字...? なあ、姉ちゃんの職場ってこの前の道の近くだよな」
「はい。歩いてすぐですよ」
「もしかして、親父さんの名前って洋介か?」
「父を知ってるんですか?」
「昔、世話になってた時期があってな。その時は確か爺さんにも治療してもらったぜ」
「そうだったんですね」

 意外な接点を見つけ名前は驚いた。葛西は彼女の職業を察してニヤリと笑う。

「てことは姉ちゃんもモグリの医者か」
「こんな所で言わないでください...!」
「悪い悪い」

 葛西は謝ってみせたが、名前の落ち着いた佇まいを崩すことが出来て楽しそうだ。名前は自分の事ばかり知られている気がしたので質問を返した。勿論声を落とす配慮も忘れない。

「診療所に来たってことは、葛西さんも危ないお仕事をされてるんですか?」
「仕事っつーか、若い時は派手に暴れ回ってたな。今じゃしがない中年男だけどな」
「葛西さんは今でも十分お若く見えますけど」
火火(ヒヒ)ッ、おじちゃんを褒めても何も出てこねえよ」

 名前は世辞のつもりではなかったが、葛西は独特な笑い声と共に自虐を込めて自身を「おじちゃん」と呼んだ。見た目とは裏腹に茶目っ気があるらしい。
 会話の合間に頼んでいた酒と料理が運ばれてきた。互いに酔いが回ってきて会話も弾む。中には社会的に際どい話もあったが、周囲の客の大きな声にかき消されたおかげで誰かの耳に入ることはなかった。

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 時間はあっという間に過ぎていき、終電も迫ってきたためお開きとなった。会計前に名前は財布を取り出そうとしたが、葛西が遮ったので大人しく引き下がった。
 名前は最寄り駅まで送ってもらい、葛西に頭を下げた。

「今日はありがとうございました。おかげさまで楽しい休日になりました」
「俺も久しぶりに若い子と飲めて楽しかったぜ。また飲みに行きたいし、連絡先教えてくれよ」
「是非。交換しましょう。お酒の誘いでも治療の予約でも、お気軽にどうぞ」
「そうかい。ありがてえな」

 こうして互いの電話帳に新しい名前が加わった。2人の奇妙な関係性が飲み仲間に昇格し、葛西は内心で密かに喜んだ。名前もすっかり打ち解けて、柔らかい表情を見せるようになっていた。

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